NEOぱんぷきん 2018年3月号 好きです「遠州」!

更新日:2018.3.1

磐田にもあった秋葉大鳥居と秋葉街道

秋葉山には、江戸時代後期に火伏の霊地として全国から参詣者が訪れました。秋葉山への参詣者が訪れた道を秋葉道・秋葉街道と言います。江戸時代に参詣者が多く通った主要ルートは、掛川や浜松、御油や吉田を起点とするルートですが、それ以外に袋井や磐田からも秋葉街道が伸びていました。静岡県教育委員会編の「秋葉街道」にも「遠州中西部の東海道より北側の道はほとんどが秋葉山へ通じている」とあるとおり、厳密に言えば秋葉山に通じるすべての道が秋葉道になるし、それは遠州地方の生活の道と一体でした。遠州における秋葉山の存在感の大きさを感じます。

磐田からの秋葉街道はあまり知られていませんが、なんと3つもルートがあったようです。一つは淡海国玉神社から真北に磐田原台地を北上し、神増原から山田へと下り、敷地、万瀬、虫生、下百古里、横川から光明山へと至り、秋葉山へ登るルートです。おそらく虫生や大平の温泉で湯垢離をしたと推測されます。二つ目は、中泉の大乗院愛宕神社から北へと進み、加茂西の大円寺脇を通り、後述の気賀坂を通るルートと匂坂にて合流し、増参寺脇、掛下、神増、下野部へと至り、二俣で浜松からの秋葉街道と合流するルートです。二俣に至らず、万瀬や虫生に至るルートもありました。愛宕様と秋葉様という火伏の神様・仏様をつなぐルートと言ってもいいかもしれませんし、秋葉山と愛宕将軍地蔵は、後述しますが、深い縁があるので、そのことも関係しているかもしれません。もう一つのルートは見付の西坂から北西へと進み、気賀坂を下りて中泉からのルートと匂坂にて合流するルートです。

愛宕神社と気賀坂からの合流ルートには、寺谷に秋葉山大鳥居が立っており、参拝者はこの鳥居をくぐって秋葉山を目指しました。大鳥居は寺谷用水取水口跡の東側に立っていたそうです。この大鳥居の神額とされるものが残っていますが、縦165センチ、横95センチの巨大なものです。郷土史家の市川恒さんによると、あまりにも大きいので、ここに立っていた鳥居の額かどうかは100%証明されたわけではないとのこと。但し、この位置に、秋葉神社の飛地があることから、大きさはともかく、ここに鳥居が建っていたことは推測できるとのことでした。

しかし私は、近世の秋葉詣が盛んになる前から、霊山である秋葉山や春埜山、光明山に参詣した信仰の道があったのではないかと推測しています。森町三倉の許禰神社には「遠江国司が春は春埜山に参詣し、秋は秋葉山に参詣した」という伝承もあり、国司が通った道があったはずです。中世から戦国時代までは、ある研究によると、火伏の三尺坊大権現よりも、秋葉寺のご本尊である聖観音様の前立の仏様で、武仏ともいえる勝軍地蔵に信仰が集まっていたようで、室町時代には遠江守護の今川仲秋(今川了俊の弟)が刀剣を献上し、戦国時代にも多くの武将が秋葉山に刀剣を献上しています。また、秋葉山やその奥の竜頭山や常光寺山などでは修験者が活躍していましたが、彼らの通った道もあったはずです。これらの近世以前の秋葉山への信仰の道は、国府や守護所のあった見付が起点だったと考えられます。

熊野古道とまではいかなくとも、近世以前にも遡って秋葉信仰の道としての秋葉街道にもっと注目すれば、今までとは違った道の姿が見えてくるかもしれません。

小山展弘

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