NEOぱんぷきん 2018年7月号 好きです「遠州」!今川義元公を偲ぶ「義元公と遠州、桶狭間の戦い」

更新日:2018.7.1

今川義元公を偲ぶ「義元公と遠州、桶狭間の戦い」

梅雨の6月をいかがお過ごしですか。梅雨の最中の1560612日(永禄3519日)は桶狭間の戦いがあった日であり、今川義元公の命日です。2019年は義元公生誕500年にあたるので、静岡市では「500年祭推進委員会」も組織され、今川義元の再評価と復権を進めようとしています。義元公は、織田信長に先んじて楽市楽座を行い、今川仮名目録追加や寄親寄子制を定めるなど、領国経営に優れておりました。義元公の「己の力量を以て国の法度を申付く」の言葉は、戦国大名としての面目躍如です。太原雪斎の補佐を受け、甲相駿三国同盟を結び、武田が北を向き、北条が東を向いて領土を拡大する中、ただ一人、西の京都へと領土拡大を進めました。上洛とその政治的意義を意識しており、それは武田信玄よりも20年近く先んじていたのではないでしょうか。義元公は遠州を統治していたため、遠州にも数多くのゆかりがあり、遠州府中の見付に「自由都市共和制」の「自治」を与えたり、油山寺本尊のお厨子を寄進するなど、枚挙に暇がありません。遠州二俣城主であった松井宗信は、田原城攻めなどで活躍し、「粉骨無比類」と義元から感状を受けた勇将でした。桶狭間の戦いの際にも、義元本陣よりも西に布陣していましたが、信長の急襲を知るや、精鋭200騎を率いて本陣に馳せ戻り、最後まで戦い抜き、全員討死しています。一説には義元の死を知った後に突撃したとも言われています。また、後に高天神城で最期を遂げる勇将、岡部元信は、桶狭間の戦いで義元が討ち取られた後も鳴海城を死守し、城の明け渡しと引き換えに義元の首を取り戻し(義元の首を輿に乗せ、悠々と城を退去)ました。また、駿府への帰還途上に刈谷城を急襲し、城主の水野信近を討ち取って、織田軍に一矢報います。戦国時代は、江戸時代のような武士道や儒学に基づいた、「死しても主君に忠義を尽くす」ような君臣関係の美学はなく、生き延びるために強い者につき、裏切りがあって当然でした。そのような世にあって、松井宗信や岡部元信に忠義を尽くさせた今川義元公の魅力とはなんだったのでしょうか。また、今川義元公は、一説によると、織田領侵攻の際に略奪を禁じたとも言われています。これも戦国の世では類例のないことであり、ひょっとしたら、我々の想像を超える戦国大名だったのかもしれません。

桶狭間であの日、何が起こったのでしょうか。実はよく分かっていないのです。これまで言われてきた「田楽狭間で酔っぱらっている間に太子ヶ峰からの奇襲を受けた」ことはなく、桶狭間山に布陣していた際に正面攻撃を受けたというのが現在の通説です。義元公は大高城に向かって大高道を西に進んでいたと言われてきましたが、「桶狭間山」は鳴海道にあり、大高道から進路変更をしています。なぜ、大高城を目指さず、鳴海道に入ったのでしょうか?なぜ正面攻撃によって今川軍は崩れたのでしょうか?なぜ、織田軍の接近を許したのでしょうか?これは木が東に向かって倒れるほどの大変な強い風雨が、今川軍の視界を遮ってしまい、この強雨によって隙が生じてしまったようです。この「強風雨」こそが勝敗を決した最大の要因であり、強雨が来ることを直観的に予想するほどの嗅覚を、義元やその幕僚が備えていなかったことが敗因だったかもしれません。それにしても、丸根・鷲津砦を落とした朝比奈泰朝や徳川家康がなぜ、救援に間に合わなかったのでしょうか?この二隊が戦場に駆付けていれば、川中島の戦いの高坂昌信のような役割を果たし、桶狭間の戦いは被害を出しつつも引き分けだったかもしれません。なお、本陣まで攻め込まれたことは、それほど恥ずべきことでしょうか。徳川家康公も関ケ原の戦いでは島津義弘に本陣近くまで攻め込まれ、また、大阪の陣では真田幸村にあわやというところまで攻め込まれています。武田信玄公も川中島の戦いでは切り付けられ軍配で応じたと言われています。家康公は三方原、信玄公は砥石崩れと敗戦を経験しています。関ヶ原の徳川軍がそうだったように、先陣に精鋭を置き、本隊は意外にも老兵や弱卒だった可能性はあろうかと思います。

勝敗は時の運。たしかに結果が全てかもしれません。しかし、その人の価値は、その結果の一瞬ではなく、その人の生きてきたすべてにあるように私は思います。今川義元公を遠州でも再評価、顕彰すべきではないかと思います。

小山展弘

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