NEOぱんぷきん 2017年11月号 好きです「遠州」!「弓道王国・遠州の由来」

「弓道王国・遠州の由来」

静岡県、特に遠州は弓道の盛んな地域です。湖西市には、全日本弓道連盟会長を務めた鈴木三成先生(範士十段)がいらっしゃいます。全国大会でも、静岡県、特に静岡県西部地区が活躍することも多く、私が高校生の頃にも、弓道の強豪県といえば、静岡県と鹿児島県だったことを覚えています。

遠州の神社の祭礼には、神事としての奉射、いわゆる「お祭り矢場」が多数残っています。一宮の小國神社様、小笠神社様(矢矧祭)、浅羽の梅山八幡神社様の稚児流鏑馬、「金的」の行われる大頭龍神社様などでは、現在でも、神事やその一環としての奉射が行われています。なお、磐田市の鎌田神明宮様や御前崎市の駒形神社様にも矢場が残っていますし、磐田市の府八幡宮様にもかつては矢場があったようで、遠州の各地で、このような「お祭り弓」が行われたと考えられます。

大頭龍神社の「金的」は、大頭龍神社の例祭の日に行われます。「金的」は直径三寸(9㎝)の的を射ぬくものです。金的を射止めた人の中には、大頭龍神社に「奉納金的中」の扁額を奉納する人もいらっしゃいます。また、大頭龍神社様の奉射会では、「金的」の後に、「三段的」が行われます。「三段的」とは下段に的が四つ、中段に的が二つ、上段に的が一つ掛けられた矢場で、この「三段的」に向かって、四矢を三度、行射します。

「金的」は「鬼の目」を象徴していると言われています。それを射抜くことで、厄除け・魔よけの意味合いがあるようです。日本人にとって弓矢は武具であると同時に、弓矢そのものに疫病などの原因と考えられた「鬼」「魔」を払う霊的・呪術的な力が備わっていると信じられてきました。陰陽道の影響も受けたと考えられる、節分と同時に行われる「追儺」の儀式(かつては年越しの儀式だった)でも弓弦を鳴らす「鳴弦」の神事が残っています。

遠州地方は江戸時代から弓術が盛んだったようです。古文書にも「駿河、遠江、三河地方は、農民や職人、商人が、武士と同じように弓術に熱心に取り組んでいる」と残されています。大頭龍神社様の「金的」や「お祭り矢場」「お祭り弓」は、小笠町の代官であった黒田太郎左衛門と川田寿格という人物によって始められたとの記録があります。

それにしても、なぜ、遠州で、これほど「弓」が盛んになったのでしょうか。

渡辺二朗さんの「神事における『お祭り弓』の考察」によると、「お祭り弓」「お祭り矢場」の残る地域と長篠の戦の時点での徳川家康の勢力圏がほぼ重ね合わせることができるとのこと。徳川家康がこの地域では、戦になれば、領民に加勢に駆け付けるように要請するとともに、武士以外の農民や町人、商人が弓を引くこと、弦を張った弓を持ち歩くことを許していました。家臣による正規軍に対し、農民、町人達が予備軍的な役割を担っていたといえるでしょう。「遠州の裸弓(弦を張ることはできないが、弓を裸のままで持ち歩くことが許された」「三河の張弓(弓の弦を張ったまま持ち歩くことが許された)」という言葉が残り、家康が各地の弓術の師範に発給した文書も残されています。そして各地の弓の師匠や師範が、「お祭り弓」「お祭り矢場」の神事や行事をはじめ、その地域で弓術を伝え、それが明治時代以降も現在に至るまで、受け継がれていきます。たとえば、磐田市議会議長を歴任した加藤治吉先生の家には、江戸時代の日置流の免許皆伝の文書が残されており、加藤先生のご親族から現在も弓道の名指導者が輩出されています。

豊臣秀吉公の刀狩に始まり、元和偃武以降、江戸幕府は一国一城令など国内軍縮を進めていきました。まさに、川勝平太知事の訳書「鉄砲を棄てた日本人」の通りでした。しかしながら、徳川家康公が人生で最もつらい時期を支えた領民達であったことを象徴するかのように、遠州や三河の領民たちの「弓」は取り上げられませんでした。そして、遠州や三河の先人たちは、徳川家康公から許された「弓術」を、神事・儀式としての「弓術」として性格を加味しながら、次第に精神性の高い武道としての「弓道」に昇華させていったように感じます。遠州地方で弓道が盛んなことは、徳川家康公にルーツがあるといっても過言ではないように思います。皆様も、一度、各地の弓道場を訪ねて、このような視点から弓道をご覧になってみてはいかがでしょうか。

小山展弘