NEOぱんぷきん 2018年12月号 好きです「遠州」!遠州にもあった「回峰の道」

遠州にもあった「回峰の道」

「回峰行」と言えば、比叡山延暦寺や大峰奥駆道の「千日回峰行」が有名です。比叡山延暦寺の千日回峰行は、途中で行を継続できなくなった時には自害することを誓って七年間にわたって行われます。13年目は比叡山内や日吉大社などを礼拝しながら30㎞の行程を年100日、45年目は年200日回ります。5年目には無動寺明王堂で9日間、断食・断水・断眠・断臥で不動明王の真言を唱え続ける「堂入り」という過酷な行を行います。6年目にはこれまでの行程に京都の赤山禅院への往復が加わり、1日約60 km の行程を100日続け、7年目は、前半の100日は全行程84 km におよぶ京都大回り、後半100日は比叡山中30 km の行程に戻り、満行するという過酷な修行です。

山岳仏教の研究者である山本義孝氏によれば、これら回峰行の原型ともいうべき、仏教の山林修行は、日本だけでなく、中国や韓国にも存在していました。中国仏教の聖地である五台山や天台山も、もともとは仙人が想像されるような道教の聖地であったところに、仏教が融合したようです。このような大陸の山林修行は、遣隋使や遣唐使によって日本にもたらされました。もちろん、飛鳥時代には役行者も現れ、修験道や雑密と言われるような山岳信仰も興っていました。しかし、それだけにとどまらず、飛鳥京や藤原京、平城京では、官立寺院が山林を所有し、僧侶の中には寺院を離れて山林修行を行う者もいました。総国分寺ともいわれる東大寺も、春日山中に広大な山林を所有し、そこで山林修行が行われていました。春日山中を回峰する東大寺僧侶による「千日普段供花」は幕末まで続いていたそうです。里の寺院は山林修行の拠点としての性格も持っていたのでした。そして、山林修行の系譜は、東大寺から、全国の国分寺へと波及していきます。

浅羽郷土資料館の「遠州の霊山と山岳信仰―その源流と系譜―」(山本義孝氏が執筆・編集)によれば、なんと「回峰の道」、「山林修行場」が遠州にも存在していました。遠江国分寺の山林修行場として、もっとも規模が大きかったのが岩室寺です。そして、遠江一宮の神体山である本宮山や岩室寺を起点として、白山~春埜山~大日山~大尾山~粟ヶ岳~御前崎(駒形神社)~高松神社~三熊野神社~普門寺~小笠山(小笠神社)~法多山へと続く、遠州の東方の霊山・寺社をめぐる「春の入峯修行」が存在していました。また、本宮山や岩室寺を起点として、光明山~観音山~龍ヶ岩山~富幕山~石巻山~普門寺へと至る遠州の西方をめぐる「秋の入峯修行」もあったそうです。これらの回峰の道は、平安末期の熊野修験の活躍もあり、鎌倉時代初期には形成されていたようです。天台密教や真言密教によって本格的な山岳寺院が建設されたため、それらの山岳寺院群もルートの中に組み込まれていきました。

地図で見ると、「遠州回峰の道」は遠江国府(守護所)や遠江国分寺を囲むかのようなルートです。これらの山林修行は、遠州の霊山・霊地ともいうべき寺社を礼拝し、修行者が自らの呪力を高めるという意味があったと考えられますが、それにとどまらず、おそらく国府(守護所)や国分寺を守護する結界を張るような意味もあったのではないでしょうか。中世後半になると、秋葉山を起点に竜頭山、山住山、常光寺山へと続く南北の修行道が形成されます。常光寺山には大峰山に匹敵する行場が存在するとのこと。また、竜頭山の南側にも行場の痕跡があります。これらは大峰奥駆道と大峰山中の行場を意識して開かれたと推測しますが、この南北の修行道の南の延長線上に国分寺や国府があることも、大変興味深く思います。この中世後半以降の修行の道も、国分寺や国府を守護するという意味があったように思えてなりません。

これらの遠州回峰の道の存在は、いかに国府や国分寺が歴史上、大きな存在感を持ち、国府や国分寺が遠州の中心であったことが想像されます。このような「遠州回峰の道」の存在も感じながら、来年の初詣にお出かけになられてみたら、いかがでしょうか。

小山展弘