NEOぱんぷきん 2019年2月号 好きです「遠州」!「家康公のかくし湯?虫生温泉と大平温泉」

最初にお詫びと訂正です。NEOぱんぷきん10月号「春野七不思議と春野五行めぐり」の中で「気田の金山神社様」とご紹介しましたが、気田に鎮座されるのは「南宮神社様」です。大変ご無礼致しました。ぜひ、気田の「南宮神社様」にお参りに出かけてみてください。

虫生温泉は、「磐南のくらしを支えた文化財」によれば、現在も湯温が43度もあるそうですが、温泉宿は一軒もなく、ひっそりとしています。小林佳弘先生の「続いわたに住みたくなる本」によれば、江戸時代の文化・文政年間には、秋葉街道の湯治場として宿屋も多く、浜松宿や見付宿からも湯治客が押し掛け、賑やかだったようです。岩室寺や秋葉山、光明山参詣の「湯垢離場」としての性格も持っていたように思います。

虫生温泉には次のような開湯伝説があります。「文徳天皇(平安時代初期827-858年)の時代、皮膚病を患い、子供のなかった虫生の長者が、紀州熊野へ行き、温泉に浴して参籠したところ、皮膚病が治った。長者は『この霊湯を虫生にも湧かせ、村人の病も救い、自分の願いも叶えてください』と祈願したところ、熊野権現様が夢枕に立ち、『虫生の南の山の紫の霞たなびく地を掘れば温泉が湧く。その温泉に入れば、願いも叶い、村人の病苦も救われる』とのお告げをいただいた。虫生に戻って一夜明けると、紫の霞がたなびくのが見える。そこを掘ってみると、はたして温泉が湧いた。村人の病気は救われ、長者は子宝に恵まれた。長者は村に熊野権現様を勧請し、湯壺の上には薬師如来様をお祀りした」というものです。

紀州熊野の「霊湯」とはどこの温泉でしょうか。私は「湯の峰温泉」だと思います。湯の峰温泉には「小栗判官の蘇生伝説」があります。「相模国の小栗判官は、関東一の美人といわれた照手姫と婚約したが、照手姫の父親の横山の怒りに触れ、毒殺される。閻魔大王により地上界に戻されるものの、「餓鬼」?の姿となった小栗は、藤沢遊行寺(時宗)の大空上人や多くの人の手を借りて湯の峰温泉に至り、「つぼ湯」に四十九日間入り、ついに蘇生した」という伝説です。湯の峰温泉は今でも効能の高い、皮膚病にも効く湯治温泉として関西随一と言われています。湯の峰温泉の「つぼ湯」の隣には薬師如来様をご本尊とする東光寺があります。虫生の長者は、湯の峰温泉で湯治し、熊野本宮大社様(当時の名称は「熊野坐神社」)に参籠したのだろうと推測いたします。ちなみに、一遍上人は熊野本宮大社に参籠し、お告げを受けて悟りを得て、時宗を開きました。また、和泉式部は、熊野権現様から「もろともに塵にまじはる神なれば月のさわりもなにかくるしき」とのお告げをいただきました。現代とは「常識」の異なる平安時代ですが、「和光同塵」の言葉通り、当時から分け隔てなく、すべてを受け入れた熊野権現様と熊野信仰を象徴する逸話として有名で、私も好きな言い伝えです。熊野信仰を広めた時宗が遠州国府の見付に縁が深いこと、遠州の山岳仏教に熊野修験が影響を与えたことも、虫生温泉の開湯に関係があるかもしれません。

大平は、元は「御湯平」と呼ばれ、天平時代から鉱泉が湧いていたと言われます。今も湯沢には鉱泉が滾々と湧いています。地元の伝承によれば行基僧正や徳川家康公も「湯沢の湯」に入ったとのこと。徳川家康公が浜松に在城した天正年間、浜松城から最も近い湯治場は大平温泉と虫生温泉だったと考えられます。武田信玄や上杉謙信、豊臣秀吉など多くの戦国武将が温泉で身体を癒しました。家康公も熱海の湯を江戸まで運ばせるほど温泉好きでしたから、度々、二つの温泉を訪れたと推測いたします。伝承では、徳川家康公が「御湯平」を「大平」に改名したとのこと。「武田信玄の隠し湯」と言われる温泉もありますが、家康公は「御湯平」から「大平」へと改名して、温泉の存在を隠したかったのかもしれません。御湯平は「家康公のかくし湯」ではないでしょうか!?虫生温泉は鉱泉を沸かして入ったため、「蒸し湯」→「虫生」になったと言われますが、ひょっとしたら、この改名にも家康公が関係しているかもしれません。いずれにしても、これほどの歴史と伝承を持つ温泉は県西部では稀です。二つの温泉が再び湯治場として復活してほしいと思うのは私だけでしょうか。

小山展弘