NEOぱんぷきん 2019年3月号 好きです「遠州」!「室町時代の遠州の英雄 今川了俊①」

  最近、室町時代や中世の歴史が静かにブームとなっています。2016年に呉座勇一さんの「応仁の乱」(中公新書)が37万部を超え、歴史解説書としては空前のヒットとなり、さらに応仁の乱や室町時代をテーマにしたマンガや解説書も数多く出版されました。また、室町時代初期の騒乱を描いた、亀田俊和さんの「観応の擾乱」も発売されました。室町時代や中世がこれほど注目されたことは、近年なかったように思います。この時代は、天皇が二人も存在し、武将達は、あちらについたり、こちらを裏切ったり、叛服常無く、正義や道徳の価値観、権威が大きく揺らいだ時代でした。これらの本がヒットするのは「現在の世情が室町時代にどこか似ている」と、私達が無意識に感じているからかもしれません。

そんな室町時代を力強く、気高く生き抜いた遠州の武将がいました。NEOぱんぷきん2009年7月号でもご紹介しました今川了俊です。2016年のいわた大祭りで、「今川了俊と釣鐘」をテーマとして寸劇が行われたことをご記憶の方もいらっしゃるかもしれません。今川了俊は、京都または鎌倉、一説には見付の生まれ(寛政重修家譜では見付城の出生)ともいわれ、10歳から17歳くらいまで遠州府中(見付)に在住していたと考えられています。20歳の頃には京都で、禅、和歌、連歌、儒学を学び、徒然草を書いた吉田兼好とも交流があったようです。父の今川範国(福王寺に供養塔があります)のあとに、遠江守護となり、その後、九州探題として九州を二十四年間も支配しました。九州を平定することを通じて、天皇が二人も存在するという日本史上最大の異常事態であった南北朝時代を終結させることに尽力するとともに、倭寇を取り締まり、明との間で勘合貿易を興しました。この勘合貿易の富が大きな背景となって金閣寺は建立されました。今川了俊は、軍事的にも経済的にも足利幕府の全盛期に貢献し、権威と権力の混乱時代であった室町時代に、ひと時の安定をもたらしたといっても過言ではないと思います。磐田市誌は「了俊は文武両道に秀れた士で、武将として歌学者として、史上に大きな足跡を遺したひとである。恐らく彼ほどの人物は前にも後にもこの遠州に現れないと思う」と絶賛しています。また、遠く離れた山口県の郷土史家の山本一成さんが著書「南北朝と大内氏」の中で「戦略家、政治家として、また文化人として抜群の能力を発揮した了俊は南北朝時代まれな人物であったといえよう」と評価しています。

南北朝の騒乱の終結に大きく貢献した大内義弘と今川了俊ですが、応永の乱で敗死した大内義弘の供養塔が国宝の瑠璃光寺五重塔であるのに比べ、今川了俊の供養塔が袋井市海蔵寺にひっそりと立つ石塔であることは、遠州地方において今川了俊の評価が低いことを象徴しているように感じます。了俊が北朝方だったこともあり、戦前においては評価がなされず、戦後においてもあまり顧みられてきませんでした。しかし、室町時代や中世がブームの今こそ、先入観にとらわれず、この遠州にゆかりの深い偉人の足跡を訪ねてみたいと思います。今川了俊の記事は1回では書きおおせませんので、数回に分けたいと思います。

1361年、今川範国は、家督を次男の今川了俊に与えようとしたが、了俊は兄の範氏が嗣ぐべきとして固辞します。1365年にその範氏が死ぬと、範国は再び了俊に与えようとしますが、この際も固辞し、兄の子の氏家に譲ります。その氏家も早世すると、範国は三度、了俊に与えようとしますが、これも固辞し、氏家の弟の泰範を僧侶から還俗させて譲ります。この話を漏れ伝え聞いた管領の細川頼之は「世にためしなし」と絶賛したと伝えられています。叛服常無く、正義の価値観と権威が混乱した時代に、敢えて身を退き、秩序を維持する行動をとり、「筋を通した」。この了俊の行動に、欲得に流されず、気高く生きようとした決意、室町幕府のもとでの秩序の回復を図る使命を自らに課そうとした決意を感じるのは私だけでしょうか。もっとも、このことが後々、了俊を苦しめることになるのですが…。

小山展弘