NEOぱんぷきん 2019年4月号 好きです「遠州」!「もう一つの出世城 横須賀城」

四月第一週の週末は、春を告げる遠州横須賀の三熊野神社の大祭が、毎年にぎやかに行われます。三熊野神社は、同時期に創建された小笠神社と高松神社とともに1300年近い歴史を誇る古社です。7世紀初頭に、熊野三山に皇子の誕生の祈願を行った文武天皇が、無事に皇子(聖武天皇)を授かり、そのお礼に熊野三山を遠江国に勧請して創建したと伝わっています。特に「子授け」のご神徳があるといわれ、大祭では「おねんねこさま」を抱く「神子抱き神事」と呼ばれる神事があり、毎年、多くのご夫婦で賑わいます。

三熊野神社の大祭と言えば、三社囃子と「祢里」とよばれる山車の引き回しが有名ですが、これらは、江戸中期に横須賀藩主であった西尾忠尚公が、神田の三社祭を横須賀に伝えたことが起源だと言われています。横須賀は横須賀藩の藩都であり、政治的にも経済的にも文化的にも、「南遠」地域の中心だったと思います(平成の大合併以降、「南遠」という言葉は、やや使われなくなっているように感じますが…)。

ところで、出世城といえば、浜松城が有名です。曳馬城を浜松城と名前を変え、大幅に拡張した徳川家康公本人をはじめ、天保の改革で有名な老中の水野忠邦公をはじめ、老中に5人、大坂城代に2人、京都所司代に2人、寺社奉行に4人が就任するなど、幕府の要職に就きました。出世城の名のとおり、この遠州から当時の日本の政治を担ったといっても過言ではないでしょう。

そして、もう一つの出世城が横須賀城だと思います。横須賀に神田の三社囃子を伝えた西尾忠尚公は、水野忠邦公と同じ要職である老中に就いていました。また、なんといっても、高天神城を攻めるための基地として、大須賀康高公に横須賀城を築かせたのは、徳川家康公であります。

初代城主の大須賀康高公は、新参者にもかかわらず武功が多く、徳川二十将にも数えられました。豊臣政権下で、次に横須賀に入城したのは有馬豊氏公でした。有馬豊氏公は、渡瀬氏の家臣から身を起こし、関ヶ原の戦いでは東軍として参陣し、久留米藩二十一万石の初代藩主に出世しました。江戸幕府が開かれ、初代横須賀藩主となった大須賀忠政公は、名君であったと言われていますが、27歳の若さで病没します。その子の大須賀忠次(榊原忠次)公は、幕府の大政参与の要職に就きました。その次の横須賀城主は、あの徳川頼宣公で、言わずと知れた、御三家紀州藩の初代藩主となりました。次の松平重勝公、重忠公の二人は駿府城代を兼ねます。その次の城主の井上正就公は老中に就きました。余談ですが、井上正就公は、江戸城内最初の刃傷事件で刺殺されてしまうことでも有名です。その子の井上正利公は寺社奉行に就きました。先述の西尾忠尚公は、奏者番と寺社奉行を兼務の後、若年寄、老中と出世しました。忠尚公は1747年に老中を辞めた後、1751年から1760年まで再び老中に9年かも就きました。高い行政手腕と人望あってのことと拝察します。

横須賀城からは、老中2名、大政参与1名、寺社奉行1名、駿府城代2名、久留米藩初代藩主と紀州藩初代主を輩出しました。浜松城と一概に比較できるものではありませんが、全国に誇る「出世城」と言って過言ではないと思います。

横須賀城は、保存状態がよく、国指定史跡となっています。私が子供の頃には、城跡といっても、敷地内に工場やお茶畑があり、三日月堀から天守台跡に続く細い道と天守台跡地に小さなお堂のようなものが建っているだけでした。多くの先人たちの努力により、現在では公園として整備され、天竜川の河原の石を用いた「玉石積」と呼ばれる石垣も復元されています。城跡を訪ねると、どんな天守閣が建っていたのだろう?とついつい想像してしまいます。三熊野神社大祭の日には、三社囃子を聴きながら、江戸の文化を遠州に伝えた西尾公を偲びつつ、桜吹雪の舞う横須賀城を訪ねてみてはいかがでしょうか。

小山展弘