NEOぱんぷきん 2019年5月号 好きです「遠州」!「南遠の比叡山 普門寺」

 掛川市旧大須賀町の大須賀中学校を北に向かうと、西大谷ダムに至るまでに普門寺があります。大須賀中学校の西側の大谷町で生まれた私は、子供のころ、近所の友達と普門寺の安産腹帯観音の「鯛のトンネル」や藤棚の下でよく遊んだものでした。当時、横須賀小学校1年生の春の遠足は、1円玉を33枚持って普門寺の三十三観音を歩くことが恒例でした。私にとっては馴染み深い、そして身近なお寺なのですが、実は、普門寺は遠州の中でも特別な古刹であることを成人してから知りました。普門寺は、西暦704年、文武天皇の勅命により、千手観世音菩薩様をご本尊とする法相宗の寺院として創建されました。平安時代に慈覚大師円仁により天台宗に変わったものの、開山以来、千三百年間、法灯を灯し続けています。文武天皇の勅命といえば、三熊野神社、小笠神社、高松神社という南遠の熊野三山も文武天皇により勧請されていますし、聖武天皇の子の桜井王が遠江国司となるなど、遠江国は飛鳥時代から奈良時代にかけて、注目された国だったのかもしれません。

 開山当初の普門寺は、現在の普門寺の姿とは大きく異なるものだったようです。普門寺の東には千手峰がありますが、普門寺は当初、この山の麓に創建されたようです。高木光基住職様によれば、古文書には、江戸時代以前は、西大谷川の東側の山中(スズキ大須賀工場の北あたり)の「寺の谷」に本堂や本坊が置かれていたようです。また、千手峰の山頂付近にもお堂が立てられ、現在もその遺構があるようです。普門寺の当初のご本尊が千手観音様であること、千手峰という山の名前から、両者には関連があると考えられます。ひょっとしたら千手峰に対する山岳信仰と普門寺の創建に関連があるかもしれません。戦国時代以前は、西大谷のみならず東大谷など小笠山一帯を含む寺領であったと推測されます。
武田・徳川による高天神城の戦いが起きると、普門寺は戦に巻き込まれ、寺は焼かれ、大きな被害を受けます。戦が収まった後、普門寺は、大須賀康高公により、横須賀城の鬼門を護る役割を与えられたため、それまでの本堂の地ではなく、塔頭の一つであった「明王院」の地に再建されます。これがほぼ現在の普門寺の位置に当たりますが、江戸時代には現在の普門寺の位置よりももう少し北に本堂が建てられたようです。江戸時代には龍眠寺の北から10町(約1キロ)、東西5町(約500メートル)が寺域であったとのことで、龍眠寺から西大谷ダムのあたり一帯が普門寺の寺域だったのだろうと推測されます。

 現在のご本尊は、伝教大師最澄作の聖観世音菩薩様です、また弁天堂には、平重盛公が遠州灘の海上安全のため、高倉天皇の勅命により、安芸の宮島から勧請した弁財天様が祀られています。弁財天様の御前立ちの仏様は、明治の廃仏毀釈の際に長野県の戸隠神社から普門寺にきた九頭竜弁天様で、これもまた由緒のある弁天様です。観音堂の南には不動堂がありますが、ここの浪切不動明王様は、文覚上人作と言われています。文覚上人は源頼朝に仕えた祈祷僧ですが、頼朝に源氏の蜂起を促すために伊豆に赴く途中、遠州灘で暴風雨に見舞われた際に、船底に不動明王様を刻んで祈願し、見事、風雨を鎮めたといわれています。その不動明王様が祀られていると言われており、まさに歴史を動かした浪切不動明王様です。これほどの由緒ある寺院は、そうそう数多くないと思います。それにしても、平家と源氏の双方にとって大変由緒ある仏尊様が普門寺の中で併存していることに奇妙な縁を感じるとともに、当時の普門寺がいかに大きな存在であったかを物語っているように思います。

 江戸時代には、冒頭にも記した「西国三十三観音」を山内に勧請し、これは横須賀や西大渕の自治会や個人によって現在も大切に管理されています。明治時代には長野市の善光寺より善光寺如来のご分身を勧請し、「静岡の善光寺」をも名乗るようになりました。
1300年の歴史の中で、それぞれの時代で変化と発展を遂げてきた普門寺。千手峰近辺の発掘調査等も待たれるところですが、皆様の身の回りの、なじみ深い、何気ない身近なところに、長い歴史と先人たちの思いのある旧跡があるかもしれません。

小山展弘