NEOぱんぷきん 2019年7月号 好きです「遠州」!「龍巣院と浅羽の古城」

NEOぱんぷきんの小林佳弘編集長は、遠州三山に加えて「袋井の四名刹」の巡礼を勧めていらっしゃいます。「袋井の四名刹」とは、龍巣院、西楽寺、海蔵寺、満願寺の4ヶ寺で、いずれも古い歴史と由緒をもつ名刹です。このうちの龍巣院は、三方を山と森に囲まれた素晴らしい自然の中にあります。袋井から大須賀へと向かう県道41号線や「エコパ道路」と言われる県道403号線から、車で5分ほどの場所とは思えないほどです。

龍巣院は、由緒によれば、太素省淳禅師が1485年に開創したと伝えられています。太素禅師は、名僧と言われた川僧慧済禅師の門に入り、その後、芝崗宗田禅師より法を許され、郷里の梅山に帰ってきました。寺を建てる所を探していたところ、ある夜、龍神が枕元に立ち、「我が住居を寄進します。寺を建てならば、私は守護神となり、長く寺を守護致します」と告げました。翌日その地に行ってみると、池は干上り、道ができていました。白髪の老人が現れ、「私は、この長岡に住する稲荷です。龍神の志をついで、私が道案内しましょう」と言って、現在の龍巣院の地に導きました。それから禅師は、三年かけて寺を創建したと伝えられています。別の言い伝えもあります。寺院の場所、本堂の位置を決めるにあたっては地相を見て決めたというものもあるそうです。本堂の西には「若宮」と呼ばれる地名があり、また、寺域内には湧水もありますが、これらも「四神相応」や「結界」を意識して配置されているそうです。寺院のある地は「相談ヶ谷」という地名ですが、創建に関わった人達が相談を重ねてこの地と建物の配置を決めたのかもしれません。おそらく、風水でいうところの「龍穴」に本堂が建てられていると推測され、気持ちのよい「気」が流れるパワースポットであるように感じます(「龍穴」には、龍にまつわる言い伝えが多いとも聞きます)。寺院の本堂には釈迦牟尼仏様、文殊菩薩様、普賢菩薩様の釈迦三尊が祀られているほか、開創伝説の稲荷権現様、「遠州三十三観音」の一つである厄除十一面観世音菩薩様が祀られています。なお、山門前から山内を一周するように三十三体の観音像が祀られている「長岡三十三観音霊場」もあります。山門や本堂には左甚五郎作と言われる見事な木彫りの龍があり、夜な夜な抜け出して、田畑を荒らしまわったという伝説もあります。とにかくお寺の中は「龍づくし」で、本当に龍が棲んでいたのではないかと思わせられるほどです。

龍巣院は、天正3年武田勝頼により焼かれたこともあったそうです。小笠山山系は、まさに遠州の覇権をめぐる徳川と武田の争乱の舞台であり、龍巣院だけでなく、普門寺や法多山など、この地域の寺院には、この時の争乱に巻き込まれた言い伝えが残っています。徳川家康は、高天神城に対する前進基地として横須賀城を築城しますが、横須賀城ができる前は、龍巣院の西にあった馬伏塚城が前進基地でした。馬伏塚城は、遺構内に住宅が建てられてしまっていますが、それでも土塁の遺構も残っています。現在も水田に囲まれており、武田の騎馬隊も簡単には突撃できないかのような様子で、往時を偲ぶことができます。龍巣院の東側には、遠州岡崎城(岡崎の城山)と呼ばれる城跡もあります。ここは、馬伏塚城から横須賀城への中継基地として築かれたと考えられています。現在でも堀跡がはっきりとわかるほど遺構が残っています。興味深いのは「船着場跡」と考えられている遺構。遠州岡崎城の西側は、室町時代は潟湖か入り江のようになって遠州灘とつながっていたようです。原野谷川は、現在のように太田川と合流するのではなく、この潟湖に注いで、現在の弁財天川の河口から海にそそがれていたようです。地震のたびに地盤は隆起し、現在では潟湖も入り江もなくなってしまいましたが、戦国時代には残存ラグーンがあり、遠州岡崎城には、このラグーンへの船着場があったようです。

龍巣院を囲む山々はエコパ道路建設の際にも守られました(寺域を通らないように造られました)。お寺を愛する地域や檀家の皆様によって今も素晴らしい自然と寺域が大切に守られています。心を癒しに、戦国ロマンを感じに、龍巣院を訪れてみてはいかがでしょうか。

 

小山展弘