NEOぱんぷきん 2019年9月号 好きです「遠州」!「今川義元公を偲ぶ―見付の自由都市共和制と義元公の領国統治」

令和元年、静岡市では「駿府繁栄の礎を築いた稀代の戦国大名今川義元公生誕五百年祭」と銘打って大々的なイベントを行っています。今川義元公の再評価と復権とともに、静岡の歴史や文化を振り返る機会とし、地域おこしにつなげようとする意欲が感じられます。

「NEOぱんぷきん」2018年7月号でも書きましたが、今川義元公は時代劇に出てくるような軟弱武将ではなかったようです。家督相続の際の「花蔵の乱」を鎮圧し、北条氏に奪われた富士川以東(河東)の地を奪い返し、武田信玄と上杉謙信の第二次川中島の戦いの仲裁を行い(同等の力があると認められていた)、遠江、三河、尾張の一部にも支配地域を広げ、今川氏の最大版図を実現しました。また、外交面では、北条氏から河東の地を奪い返すために、山内上杉や扇谷上杉、古河公方と結び、北条氏を包囲します。「川越の夜戦」が有名ですが、あそこまで北条氏を追い詰めたのは実は今川義元公の外交でした。北条氏から河東の地を奪い返したのちは、一転して、武田氏、北条氏と、いわゆる「駿甲相三国同盟」を結びます。これは、強国である武田、北条、今川が争い合うよりも、互いに背後の憂いをなくし、別方面に領土拡大していく同盟でした。それぞれの国力・戦力を比較しつつ利害の一致を図った、見事な勢力均衡であったと思います。しかも、三人の大名の中で、最も利益が大きく、戦略の「一般方向」が正しかったのは、今川義元公であったと思います。今川義元公は京を目指していました。織田信長や他の戦国武将が後にそうしたように、天下に覇を唱えるには、いずれ京に上らなければなりません。三人の大名のうち、西方面に領土と影響力の拡大を図ったのは今川義元公だけでした。武田信玄は北方の上杉謙信という強敵との戦いに時間を費やし、死の直前になって京を目指しますが、大きな遅れがあったとも考えることができるように思います。また、領国統治においても、分国法「今川仮名目録」追加や、寄親寄子制による支配、商人頭の任命による商業の効率的な管理、金山開発や伝馬制などの優れた統治を行います(ちなみに楽市楽座は、今川氏真が織田信長に先んじて実施)。「己の力量を以て国の法度を申し付く」との義元による「今川仮名目録追加」には、室町幕府の権威に依存しない、むしろ、権威を認めない、戦国大名としての面目躍如たるものがあります。

今川義元公の統治の中で特筆されるのが「自由都市共和制(自治都市)」政策です。その自由都市共和制の町こそ、遠江府中の見付でした。ちなみに、自由都市共和制の歴史を持つ町は、堺、博多、平野、桑名など、全国でも数例しかありません。見付の地は、南北朝の英雄である今川了俊の子孫の堀越氏が支配していましたが、堀越氏は、先述の花蔵の乱において義元公と敵対する玄広恵探側にくみしたため、義元公から攻められ、見付端城において滅亡します。見付には義元公の代官が派遣されますが、見付の町人たちは百貫文の年貢に五十貫文多く納めることを条件に代官を拒否する訴訟を起こします。義元公には、反乱を鎮圧した直後で政治的基盤が盤石ではなく、見付に強い支配を行うことができなかったという背景もあったのかもしれませんが、遠府(見付)一円の支配を町人・百姓が行うことを認め、ここに自由都市共和制の政治が展開されることになりました。政治は淡海国玉神社の境内で行われ、町人の代表者として米屋弥九郎、奈良二郎左衛門尉の名が伝えられています。

十年後、今川義元公は見付に代官を派遣して直接支配を行い、楽市楽座よりも過激な自由都市共和制は終焉します。しかし、わずか十年間であったとはいえ、時の戦国大名が領国の一部に自由都市を認めたこと、それを求めた気概ある町人がいたことは、特筆すべき歴史だと思います。

駿河府中の静岡市だけでなく、遠江府中である磐田市においても、「自由都市共和制」という稀有な統治を行った今川義元公や当時の町人達を再評価し、歴史と文化を振り返る機会としてもよいのではないかと思います。

小山展弘