NEOぱんぷきん 2019年12月号 好きです「遠州」!「田中神社と手長さまの伝承、磐田に残る巨人伝説」

更新日:2019.12.1

磐田市中泉の石原町にある田中神社様は、現在は府八幡宮様の末社で、ご祭神は宇加御魂命様、手長男命様、足名椎神様、手名椎神様、手摩乳神様、紀脚摩乳手摩乳命様、宇介命御霊命様、田中神社保食大神様と伝えられています。例大祭は八月に行われ、石原町の皆様をはじめ、地域の皆様に親しまれ、境内はいこいの場となっています。

この田中神社様、実は、平安初期にまとめられた「延喜式内社」であり、磐田郡十四座のうちの一座といわれています。一説には敏達天皇四年(西暦575年)の創建とも伝えられ、まさに一千年~一千四百年以上の由緒をもつ古社であり、中遠地区を代表する神社様の一つといってよいと思います。

田中神社様は、もともとは現在の磐田市御殿にあり、田園の中の「手長森」「田中の杜」に鎮座されていました(田ん圃の真ん中にあったから「田中神社」となったという説もあるそうです)。その森は、新幹線のすぐ北側にある一本松遺跡公園のあたりにあったのではないかといわれています。「わがまち御殿70年」によれば、江戸時代の享保二年(西暦1717年)に、水害を避けるために現在の石原町の境内地に移ったとのことです。また遠江国風土記は、徳川家康が御殿を築いた際に現在の地に奉遷したと記載しています(御殿地区の皆様は、御殿山東照宮様と田中神社様の二つの神社様とご縁があることになろうかと思います)。

石原町自治会発行の「石原町の歴史」によれば、田中神社様は伏見稲荷大社様との関係が一千百年以上にもなるとのこと。その伏見稲荷大社様では、山の神・田の神の民間信仰を「田中の大神」として合祀しています。故に「田中の大神」「田中神社」という名は、伏見稲荷大社の影響を受けたものと記載しています。ご祭神の「手長男命」様は、「鎮座一四〇一年田中神社の話」によれば「草木の成長を見守るとともに助力される神」であり、「磐田郡」や「豊田郡」の地元神であるとしています。「石原町の歴史」によれば、「手長男命」様とは、磐田地区の祖先神であり、「安らかな生活への願いを神格化した神」であるとしています。そこに府八幡宮神官であった秋鹿氏の祖先神である「足名椎神様」、「手名椎神様」が合祀されたのではないかと記載しています(秋鹿氏の屋敷はもともと磐田市御殿にありました)。

縄文人やアイヌ系の先史住民の白骨を見つけた人々が、「手長様」「足長様」「だいだらぼっち」として崇めたことが田中神社様の創始ではないかとする説もあります。「手長森」「田中森」の大木が倒れた時に、一つの石棺が現れ、手と足の長い、背の高い白骨が発見されたそうです。それを人々がお祀りして「手長さま」と呼ぶようになったという巨人伝説が残されています。この「手長さま」が訛って、「田中(たなか)さま」→「田中神社」様になったとも言われています。磐田市以外にも、宮城県から静岡県までの太平洋岸の地域では、貝塚を中心に巨人伝説・大太坊伝説が残され、「手長様」「手長明神」として祀られている例があります。「手長様」の白骨が現れたのは江戸時代である(「わがまち御殿70年」など)とする説や、すでに祀られていた田中神社の境内の巨木が倒れて白骨が現れたとする説があり、そうであれば、田中神社として存在していたところに白骨が見つかり、「手長さま」として合祀されたということになろうかとも思います。なお、「手長」・「足長」は、磐梯山や鳥海山のように、人々に災いをなして退治される存在として語り継がれている地域もあります。古事記や日本書紀に登場する「土蜘蛛」や「ナガスネヒコ」という名も、手足の長い体格の古代人を連想させるものがありますが、関連があるようにも思います。

田中神社様のルーツの一つは諏訪信仰にあるかもしれません。諏訪には「手長神社」様や「足長神社」様があり、ご祭神の手摩乳神様(手長彦神)や足摩乳神様は諏訪大明神のご伴神とされています。手長神社様はその地の産土神として信仰され、「手長さま」と呼ばれて親しまれています。諏訪信仰が遠州に広まった際に、国府所在地の磐田に、諏訪大明神とともに祀られたという可能性も捨てきれないように思います。

小山展弘

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