NEOぱんぷきん 2020年2月号 好きです「遠州」!「地蔵霊場としての見付・磐田」

小林佳弘先生のご著書の「遠江の地蔵菩薩」にあるとおり、地蔵菩薩様は私達に馴染みの深いご仏尊様として、日本全国津々浦々にいらっしゃって、私達を見守っています。その意味では、日本全国どこへ行っても地蔵霊場なのですが、見付あるいは磐田は、とりわけ由緒と歴史のあるお地蔵様が祀られていて、特別な「地蔵霊場」であると思います。宣光寺の延命地蔵菩薩様、西光寺の日限地蔵菩薩様、省光寺の天満地蔵菩薩様は、「遠州三地蔵」「見付三地蔵」ともいうべき、歴史と由緒、ご仏徳に関する言い伝えがあります。

見付や磐田に平安時代や室町時代からの古い由緒を持つ地蔵菩薩様がお祀りされ、「地蔵霊場」とでもいうべき様相を呈しているのは、地蔵信仰が流行した平安時代から室町時代に、国府や守護所が見付にあり、遠州の中心であったためだと思います。坂上田村麻呂が勝軍地蔵菩薩様に祈願して勝利したとの言い伝えから、平安時代から室町時代にかけて、宮中だけでなく武将達の間でも地蔵信仰が流行しました。平清盛公、源頼朝公、足利尊氏公などは、深く地蔵菩薩様を信仰し、足利尊氏公は自分で地蔵菩薩様の絵を描いて、家来に与えるほどでした。平安時代から室町時代にかけて、国司や守護をはじめ、多くの武将や旅人達が見付や磐田を訪れ、遠州の中心であるこの地に由緒のある地蔵菩薩様を祀ったように思います。

宣光寺の延命地蔵菩薩様は、平安時代の作とされ、高さは一四〇センチもあります。「地蔵大仏」とでもいうべき立派なご尊像で、静岡県の指定文化財にもなっています。これほど大きなお地蔵様の像は、そうそうお目にかかることはありません。その名の通り無病息災、延命長寿にご利益があるとされ、「ガン封じ」などの御祈願も行っています。宣光寺の延命地蔵菩薩様には、徳川家康公にまつわる逸話もあります。木原畷の戦いの際に、徳川軍は見付の町に火をつけて敗走します。この時、見知らぬ小坊主が一人でも多くの人を救おうと必死で走り回ったそうですが、この小坊主こそ宣光寺の延命地蔵菩薩様の化身であったと言い伝えられています。後に、徳川家康公は、この火災によって命を落とした人々の菩提を弔うために、宣光寺に梵鐘を寄進しますが、その梵鐘は今でも宣光寺に残っています。

西光寺は、最近、「恋愛パワースポット」として有名になり、他県からも参詣者が訪れています。西光寺には日限地蔵菩薩様が祀られています。後水尾天皇に入内した和子の方(徳川秀忠の娘)が上洛する際に、その持仏を西光寺に残したと言われています。また一方で、小林佳弘先生の「遠江の地蔵菩薩」によると、徳川軍が見付の町に火をつけて敗走した際に、西光寺は炎上し、見付の町は灰燼に帰しますが、この日限地蔵尊様だけは、火難を免れ、なんの損傷もなかったとのこと。それ以降、霊験あらたかな日限地蔵尊様として信仰を集めるようになったとのことです。起死回生の奇跡のご仏徳があるのかもしれません。

省光寺の天満地蔵菩薩様は、足利尊氏公の念持仏です。足利尊氏公は室町幕府の開府の後、敵味方の戦死者の菩提を弔うため、三男を出家させ、自身の念持仏を祀らせます。この人物こそ、省光寺六代目住職の慈海和尚です。もともとは三本松(天満)にあったため天満地蔵様と呼ばれているそうで、室町時代には参詣者が後を絶たないほど、信仰を集めたそうです。ご先祖様への追善供養や慰霊についてのご仏徳が特に高いのかもしれません。

もう一つ、遠州あるいは磐田を代表するお地蔵様として挙げさせていただきたいのは、磐田市西新町の愛宕神社にお祀りされている勝軍地蔵菩薩様です(蓮華寺の濡地蔵様や、遠州という範囲では岩水寺の厄除子安地蔵様も挙げたいところですが…)。平家の菩提を弔うために勧請されたと伝わっています。明治時代のいわゆる「廃仏毀釈」の際に、多くの勝軍地蔵菩薩様の像は捨てられ、あるいは別の場所に移されてしまいますが、西新町の勝軍地蔵菩薩様は、江戸時代の信仰形態のまま現在もお祀りされており、大変貴重です。

「地蔵霊場」として見付や磐田を眺めてみた時、今までとは違ったまちの姿を感じられるかもしれません。

小山展弘