NEOぱんぷきん 2020年5月号 好きです「遠州」!「西の京」山口と磐田

私は農林中央金庫に勤務していた際に山口支店に配属されたことがあります。ある取引先に新任の挨拶で伺った時のこと、「出身地は静岡県」と申し上げたら、萩市出身の方から「静岡県といえば、徳川家康だな。かつて山口県と静岡県は敵同士でしたね」と言われたことがありました。山口県内の方々、特に萩市の方々には、地域の先人たちが明治維新の先駆けとなったことへの思いの強い方がいらっしゃいます。すかさず私は「幕末はそうかもしれませんが、室町時代には磐田市に縁のある今川了俊公と山口市に縁のある大内義弘公が、九州平定のためにともに戦い、南北朝統一に尽力しました。応永の乱の際には、今川了俊公は大内義弘公の決起に応じ、義弘公と関東公方の足利満兼公を仲介しようとしました。また、大内義弘公は今川了俊公の弟の娘を妻としています。室町時代には、山口県と静岡県は仲間同士ですよ。今後ともよろしくお願いいたします」と申し上げたことを覚えています。

県庁所在地の山口市では、明治維新や毛利氏ゆかりの文化財も存在するものの、それ以上に大内氏にゆかりのある文化財が存在感を持っています。それだけ山口市の歴史に占める大内氏の存在が大きいのだと思います。また、関ヶ原の戦いに敗れた毛利氏の藩都が萩に定められ、山口は幕末まで歴史の表舞台とならなかったことも理由として挙げられるかもしれません。山口の町を開いたのは大内弘世公でした。弘世公は、防長二国平定を成し遂げた際、交通の要衝で京に似た四神相応の地形の山口に本拠を移しました。その後、山口の町は大内氏とともに発展して「西の京」とまで言われ、空前の繁栄を誇りました。室町時代の山口の人口は6万人を超えていたと推定されていますが、それは京に次ぐ全国2位の人口でした。大内氏ゆかりの文化財としては、司馬遼太郎をして「長州は良い塔を持っている」と言わしめた山口市のシンボルともいうべき国宝・瑠璃光寺五重塔(大内義弘公の供養のために建てられました)、画聖・雪舟が作庭した常栄寺雪舟庭(国指定史跡)、大内義興公が勧請した西のお伊勢さん「山口大神宮」、フランシスコ・ザビエルが日本で最初に教会(大道寺)を建てて布教したことにちなむ「サビエル記念聖堂」、八坂神社の祇園祭(鷺舞は県指定無形文化財)や室町時代以来の銘菓「山口外郎」、「大内塗(大内人形)」、京にちなんだ地名などが挙げられます。一定の時刻に鳴らされるサビエル記念聖堂の鐘の音は異国情緒さえ感じさせ、山口市は現在も「西の京」に相応しい風格と風情を持っていると感じます。

室町時代の遠州の武将、今川了俊公は九州征西の際に山口県の防府や長府などに逗留し、「大さきのうら吹く風の朝なぎに田しまをわたるつるのもろ声」などの多くの歌を詠んでいます(その歌碑が現在も各地にあります)。了俊公は「道ゆきぶり」「鹿苑院殿厳島詣記」という紀行文を書き、その中で山口県の景勝地を絶賛しています。それは、大内弘世公が山口を開府し、京に倣った町造りに着手した頃のことでした。了俊公が山口の町を訪れた記録は確認できませんでしたが、了俊公の使者などは間違いなく山口を訪れており、その町の有様について了俊公に伝えていたことは十分に想像できるかと思います。

室町時代に栄えた歴史を持ち、近世城郭が築かれなかったという点で、磐田市と山口市は共通する特徴を持っています。磐田市(見付)にも京にちなんだ地名がつけられており、謡曲「舞車」や狂言「磁石」など、室町時代の様々な有形・無形の文化・文化財が伝わっています。なんらの確証もありませんが、九州探題を罷免されて遠州府中(見付)に戻ってきた今川了俊公が、「西の京」山口を意識しつつ、「東の京」を作ろうとした痕跡ではないかとすら感じます。磐田市には、勿論、室町時代よりも古い文化財も多々ありますが、山口市のように、歴史文化財や文化をもっと町づくりに生かしてもよいと思います。国分寺七重塔が再建されれば瑠璃光寺五重塔に比すべき磐田のシンボルとなるかもしれません。蛇足ですが、室町時代における今川家と大内家の交流、ほぼ同じ現在の人口規模などを考えると、山口市と磐田市が姉妹都市であってもよいのではないかと個人的には思うのですが…。

小山展弘