NEOぱんぷきん 2020年10月号 好きです「遠州」!和田岡古墳群と和田岡の歴史―「和田岡物語」

更新日:2020.10.1

掛川市西部の和田岡地区には5世紀前後に築造された大型古墳があり、これらは「和田岡古墳群」と呼ばれています。和田岡古墳群は原野谷川の河岸段丘上に立地し、南北約2.5キロメートル、東西約1キロメートルの範囲内に、大型の円墳(春林院古墳)、全長50メートル以上の前方後円墳(吉岡大塚古墳、行人塚古墳)、全長60メートルを超える前方後円墳(瓢塚古墳、各和金塚古墳)があり、東遠地域における一大古墳群を形成しています。これらの古墳群は平成8年に国の史跡指定を受けました。「掛川市史」などによると、和田岡古墳群は5世紀代に掛川市周辺を治めた首長たちの墓と推定されています。逆川流域の高御所地区でも4世紀から5世紀前半にかけて全長47メートルの前坪3号墳や浅間神社3号墳などの大型古墳が築かれました。このような古墳の分布については、もともと逆川流域と原野谷川流域に古代の勢力が存在し、当初は逆川地域の勢力が強かったが、徐々に原野谷川流域の勢力が増大し、5世紀中頃には原野谷地域の勢力が掛川市北部の覇権を握ったのではないかと考えられています。この首長の系譜が「先代旧事本紀内(「国造本紀」)に「素賀国造」と記される氏族につながると考えられています。5世紀は、和田岡地区に掛川北部を支配する首長が君臨し、和田岡地区こそが「掛川市の中心」であったと言えるでしょう。

和田岡地区や逆川地区が古代において掛川市の中心だったのは、水流が穏やかで土壌も肥沃な太田川水系(原野谷川)に面していたからでしょう。太田川水系の他の地区と同様に、原野谷川などの河川から水を得やすかったため、和田岡地区も弥生時代から水田耕作などの農業が営まれ、人が集住し、古墳も作られたと考えられます。また、古代・中世には浅羽から於保、今之浦にかけて「大之浦」という内海が広がっていましたが、原野谷川は「大之浦」に流れ込み、太田川ともども横須賀湊(現在の弁財天川河口)で外海に注いでいたとも考えられています。和田岡地区は、原野谷川の水運によって遠江国府や他地区ともつながれたので、そのことも、この地域が古代において掛川市北部の中心だった一因と考えられます。

近年、吉岡大塚古墳については完全復元整備と周辺の公園化がすすめられています。また、その他の古墳についても発掘調査や整備が進められています。吉岡大塚古墳の復元が完成すれば、茶畑や吉岡原の素晴らしい景色とともに、古代に想いをはせ、郷土の歴史や文化を感じられるスポットになるのではないかと思います。磐田市など、他の中東遠の地域でも、古墳などの古代の歴史・文化遺産をもっと生涯学習や観光に活かし、遠江国の成り立ちに想いをはせるスポットにしたらいかがかと思います。

室町時代には、各和に各和城が築かれます。各和城の初代城主の各和道空は今川了俊の末裔で今川氏の一族でした。各和氏は桶狭間の戦いにも従軍しましたが、今川氏滅亡の際に徳川家康公に攻められて落城し、各和氏は滅亡します。その後、武田信玄公が遠江に進出した際に各和城は武田方の手に落ち、原氏が城主となりますが、徳川家康公が勢力を盛り返すと、再び徳川方に攻められ、落城したと伝えられています。現在、各和氏の菩提寺でもあった永源寺のあたりに各和城の居館があったと考えられています。

原野谷川は、江戸時代初期に流路が変えられるまでは、横須賀湊に注いでおりました。こういった水運の関係もあったのか、江戸時代を通じて各和地区は横須賀藩領に属し、一方で他の和田岡地区は天領(幕府旗本領)に属しました。横須賀藩の代官として江戸時代中期(1767年)から各和地区を治めたのが長谷川家でした。代官職をつとめた長谷川家の邸宅は現在も残され、和田岡地区の貴重な文化遺産となっています。

令和元年、和田岡地区では「和田岡物語」として、和田岡地区の歴史や文化をスライドにまとめ、敬老会や文化祭などの行事で区民に披露し、地域の歴史や文化に親しんでもらう企画を行いました。分かりやすく、馴染みやすい企画によって、自分たちの住んでいる地域について理解を深めることは、地域の絆が深まることにもつながると思います。このような企画が他の地域でも行われ、それぞれの郷土への理解が深まることを願っています。

小山展弘

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