NEOぱんぷきん 2021年2月号 好きです「遠州」!光明山②―「光明城」と笠鋒坊大権現様、日本一の大黒天様を祀る霊場

戦国時代、光明山頂の光明寺は今川氏に接収されて「光明城」が築かれ、光明寺は山東に移転しました。『日本城郭大系』によると1530年前後に朝比奈時茂という武将が築城し、今川氏滅亡後は武田氏に属し、朝比奈又太郎泰方が在城したと伝えられています。1576年には徳川家康の武将、本多忠勝や榊原康政により光明城は攻略され、以後、徳川家康の支配となり、大久保忠世の家臣が守備したようです。『遠江古蹟図絵』によれば、この合戦の時に鐘楼の鐘が鉄砲の弾を受け、その傷が残っていたようです。小林編集長の『遠江怪奇不思議談』によると、合戦の時に只来村と山東村の百姓が「かち栗」を家康公に献上し、家康公は「光明かち栗は功名勝栗なり」と大いに喜び、百姓たちに苗字帯刀を許したと伝えられています。以後、徳川家への勝栗献上は明治維新まで続いたそうです。光明城は1592年までに廃城したと考えられており、城跡には光明寺が山東から移転し、再建されました。現在も残る石垣は、残念ながら光明城の石垣ではなく、光明寺の石垣として江戸時代に創られたと考えられています(浜松城の石垣も家康公在城時は築かれていませんでした)。

光明山にも天狗伝説があります。光明寺には「正一位光明笠鋒坊大権現」様が祀られ、寺伝によると、聖武天皇から「笠鋒坊大権現」の勅額を下賜されたと伝えられています。笠鋒坊大権現は、光明山に魅せられた行基菩薩が一心に祈っていると、七千五百もの眷属を引き連れて「明星谷」の虚空に現れ、光明山の守護を誓願して鎮座されたと言われています。行基菩薩は弟子の最傳に寺を任せ、自身は秋葉山の開山に向かいます。後を任された最傳は笠鋒坊を祀る堂を建てると、その後、寺を去ってしまいます。しかし、733年、最傳は多くの修験者を連れて寺に戻り、「我、常にこの山に住し、長く郡生を利生せん」と告げて白雲に乗って姿を消したため、最傳和尚こそ笠鋒坊大権現様だとも伝えられています。天平9年、遠江国司の草壁大掾が天竜川に棲む二匹の大蛇を退治のため笠鋒坊大権現と七千五百の大眷属に七十五膳を献上して祈願し、見事、大蛇を退治できたという言い伝えもあります。

また笠鋒坊大権現は、寺伝によると、1852年に再び現れ、時の住職に大黒天像を彫るようにお告げがあり、1854年に客殿に安置されたと言われております。また、大火災の後、光明寺が山東の現在の地に移転した後、1937年に光明山頂にあった杉の大木で日本一大きな木造大黒天像がつくられ、現在も祀られています。その胎内仏には日蓮上人作の三面大黒天が治められているとのことです。笠鋒坊大権現様のお告げにより、これまでのご仏尊様、天部の神々様に加え、新たに大黒天霊場も開かれることになりました。

また、近世になると、光明山中には「稚児の滝」や尾根筋に湧き出す「延命水」「明星水」など水が豊富であることから「水の神」としても崇敬を集め、「火の神」「火伏せの神」として崇敬を集めた秋葉山と一対とする信仰も盛んになりました。火と水を併せて「カミ」と発音する「言霊」からか、両山へのお詣りでなければ「片詣りになる」と言われました。これについて、私は、光明山の大黒天信仰や水の神の信仰も、遠江国府や国分寺と関係があるかもしれないと思います。北の方位は、五行配当で「黒」や「水」を表すため、主要施設の北方の守護として、大黒天や水の神が祀られるケースがあります。遠江国府や国分寺からみて真北にあたるからこそ、光明山や光明寺に、大黒天様や水の神様が祀られたかもしれません。

現在の光明寺には吒枳尼天様も祀られています。「尾巌吒枳尼眞天(おいわだきにしんてん)」とのご尊名で豊川稲荷(妙厳寺)の吒枳尼天様お姉さん稲荷になると地元では伝えられています。家内安全や商売繁盛のほか遺失物発見に御利益があると言われています。

光明山は、三満虚空蔵菩薩様、大黒天様、摩利支天様、尾巌吒枳尼眞天様、笠鋒坊大権現様のみならず、薬師如来信仰、水源・水神信仰、金光明最勝王経納経伝説もある、大変バラエティに富んだ霊場です。「遠州三霊山」は、中世には「出羽三山」に比すべき修行者の聖地だったのかもしれないと思います。光明山からの素晴らしい眺望や「光明城跡」とも合わせ、ぜひ、遠江の地域振興や観光に活かしてほしいと思います。

小山展弘