NEOぱんぷきん 2021年3月号 好きです「遠州」!可睡斎の由来

萬松山可睡斎は数多くの末寺をもつ遠州を代表する曹洞宗の古刹です。ご本尊は聖観世音菩薩様ですが、不動明王様、烏枢沙摩明王様なども有名です。神仏分離の際、秋葉山秋葉寺から「秋葉三尺坊大権現」のご真躰が移されたと言われ、その根本道場としても信仰を集めています。壮麗な雛祭りが行われるほか、李鴻章の命を救った佐藤進医師を称える「活人剣」碑もあります。多数の雲水が修行する「仏様のテーマパーク」の名に相応しい寺院です。

可睡斎は如仲天誾禅師が遠州久野の郷に草庵を結んだことが起源であると言われています。如仲天誾禅師は、森町飯田に崇信寺、森町橘に大洞院を開き、門下から六名の俊才を輩出しました。彼らは洞門六派として東海地方における曹洞宗の発展に大きく寄与しました。

永正年間(1504~1521年)に、磐田市にある一雲斎の大年祥椿和尚の弟子の大路一遵和尚が如仲禅師の足跡を遍歴し、久能城近くで毘沙門天の奇瑞を感得し、この地こそ如仲禅師の草庵の跡と確信し、久能城主の久能宗隆の援助を得て「東洋軒」という寺を開いたと言われています。この東洋軒こそ可睡斎の前身であると『可睡斎物語』には書かれています。

可睡斎の寺号の由来について人口に膾炙した逸話があります。徳川家康公が徳川家の恩人である等膳和尚を尾張篠島の妙見斎から呼び寄せた際に、等膳和尚が遠路の疲れから家康公と対話中に居眠りをしたので、側近がその無礼を咎めたところ家康公は「和尚、睡る可し」と許し、その後に等膳和尚が与えられた寺(東陽軒?)が可睡斎と称したというものです。この逸話は「可睡斎御由緒口訣室中秘録之分」という書物に記されています。家康公の信頼厚かった等膳和尚は、四か国の僧録(曹洞宗寺院の人事や寺格、紛争・裁判の決裁を管轄)に任命されました。可睡斎は一雲斎の末寺でしたが、僧録に相応しい寺格にするために如仲天誾、真巌道空、川僧慧済の世代牌を一雲斎から移し、一雲斎を等膳の隠居寺とする一方で、可睡斎は一雲斎に莫大な寄付をしたと言われています。このような経過を経て、可睡斎は曹洞宗真巌派の本拠、大洞六派の頂主として、屈指の名刹となったのです。

可睡斎の寺号の由来には別の説もあります。『袋井市史』は可睡斎第二十七世の教寂芸訓和尚が、徳川綱吉公に求められて出府した際に著した「遠陽州周智郡久能郷万松山可睡斎起立幷開山中興之由来略記」を引用し、大路一遵和尚が、法祖の如仲天誾禅師が休息仮寓した草庵の「大通庵」を探り当て、旧祉に一宇を建立して「萬松山可睡斎」と名付けたとの説を採っています(『袋井市史』のこの部分を執筆したのは可睡斎五十四世の鈴木泰山和尚)。この説には「東洋軒」は登場せず、「睡った」のは休息・仮寓した如仲天誾禅師になろうかと推測します。また、等膳和尚は家康公に会う前から可睡斎に晋住していたとしています。

さらに異説として『静岡人特別号 国宝久能山東照宮』には、「睡るべし」は、等膳和尚でも如仲天誾禅師でもなく、家康公の正妻の築山殿と長子の信康公を指しているという説を紹介しています。等膳和尚は浜松城に現れた築山殿の怨霊を調伏し、その後、可睡斎こそが築山殿と信康公の霊を慰める寺となったという説です。信憑性が疑わしい説であると思いますが、もっともロマンを感じさせる説であるとも思います。なお、私は「怨霊の調伏」とはキツイ表現であると思います。むしろ『袋井市史』等で鈴木泰山和尚が述べておられるとおり、二人の霊に修禅加持と菩薩戒の血脈を授与し、追善供養を行うとともに、家康公にも禅による仏戒を説き、家康公の心の傷を癒したのではないかと推測します。

ところで、『中興由来略記』は、徳川家康公は「中泉亭に渡御の時はつねに等膳和尚を招く…」と記しています。中泉御殿は1578年に秋鹿氏より家康公が屋敷を譲り受け、1586年に城を営ませたと『古城記』に記されています。家康公は1586年に駿府へ、1590年に江戸へ移りますが、中泉御殿は、家康公が京へ上る際の宿泊所として家康公の所有でありつづけました(関ヶ原の戦いの際にも10日間滞在しています)。家康公と等膳大和尚は中泉御殿で会っていたと考えられますが、二人はどのような会話を交わしていたのでしょうか。中泉御殿のエピソードとしても、このことがもっと語り継がれてほしいと思います。

小山展弘