NEOぱんぷきん 2021年4月号 好きです「遠州」!事任八幡宮―清少納言も称えた、言霊の神を祀る霊験あらたかな遠州を代表する神社

事任八幡宮は、遠江国一之宮に挙げられることもある遠州を代表する神社です。古くは清少納言が「枕草子」に「社は、布留の社、龍田の社、花ふちの社、みくりの社、杉の御社、しるしあらんとをかし、ことのままの明神、いとたのもし。」と記しました。石上神宮、生田神社、龍田神社、大神神社などとともに霊験あらたかな神として「ことのままの明神」が挙げられたのです。鴨長明も歌に詠み、十六夜日記にも「ことのままの明神」の記載があります。当時も東海道のそばの杉木立の中に社があり、秋の紅葉が美しい境内であったと記されています。ご祭神は言霊の神の己等乃麻知比売命様、譽田別命様、息長帯比売命様、玉依比売命様です。事任八幡宮は己等乃麻知比売命様を主祭神としてお祀りする数少ない神社で、その総本宮です。神社関係の方によると、ご本殿の下には逆川も蛇行せざるを得ないほどの大きな岩があり、磐座そのものであるとのこと。事任八幡宮の位置は諏訪湖の真南にあたり、古代の祭祀跡や「無間の鐘」などの神秘的な伝説のある粟ヶ岳との関連も想像され、「遠州を代表するパワースポット」として全国から参拝者が訪れています。なお、大祓詞の「安国と平けく知ろし食せとことよさし奉りき」の一節を己等乃麻知比売命様とご縁のある神語と考える方もいます。

己等乃麻知比売命様は、同じく言霊の神である興台産命様の妃神と言われています。なお、興台産命様は、奈良県の一言主神社の一言主大神様と同じ神様であると考える人もいます。事任八幡宮崇敬奉賛会発行の「ことのままの記」によると、己等乃麻知比売命様は「言の葉を通して顕世の人々に加護を賜う『ことよさし』のおはたらき」、つまり「人々はほぎ言として祝詞を捧げ、宣り、言の葉を通し心を込めて神に祈る。そして媛神の御力を頂き、はじめて現実に事としてもたらされる。…顕幽を結ぶ御力」があると書いています。このことから清少納言の時代より「言葉により神縁が結ばれ願いを何でも叶えてくださる神」と考えられるようになりました。しかし、もともとは現世利益的な御神徳ばかりと考えられてなかったようです。「ことよさし記」(同奉賛会発行)によりますと、『ことよさす』とは、漢字表記では「任事」となり、「ことよす」にさらに敬意を込めた言葉と記されています。「ことよす」とは「高い神が、お言葉や事になぞらえて、顕世に御力をいたされる、マコトを伝えられる」の意味で記紀などで使われています。つまり、己等乃麻知比売命様の本来の御力とは、「神の言葉を人間が理解できるようにマコトを教えてくださる…神界から人々に真実を説いてくださる」としています。なお、自然の中に神を感じた太古の時代、人間は神霊の気を肌で感じ、理解できたと信じられており、このことから神道では、罪穢れを祓い、「素直な心」を持つことを最上とし、「素直な心」であればこそ神意を受け止められるとしています。

己等乃麻知比売命様が事任八幡宮の主祭神として正式に神社庁に認められたのは平成十一年です。それまで本宮山の奥宮にひっそりとお祀りされていたとも言われています。これには己等乃麻知媛命様とそれをお祀りする方々の苦難の歴史があったようです。「枕草子」など平安時代の文献には己等乃麻知比売命様が祀られていたことが記されています。武士の時代になって八幡神も合祀されましたが、己等乃麻知比売命様もともに祀られていたことが十六夜日記などに記されています。しかし、戦国時代末期から八幡神様のみ祀っているとする文献が増えていくのです。戦国末期にこのような変化が現れたことについて、「ことよさし記」は徳川・武田の争乱に関係があるとしています。周智郡の小國神社様に己等乃麻知比売命様が勧請され、同社に合祀されたとの言い伝えが残っていますが、周智郡で己等乃麻知比売命様を奉じる武藤氏が武田方につき、小國神を奉じる鈴木氏が徳川方について争い、武藤氏は周智郡を離れて掛川市亀の甲に己等乃麻知比売命様とともに移り、高天神城で討死したと言われています。その後、徳川家康公が遠江を制圧したので、これらの経緯から八坂の事任八幡宮でも、八幡神様をご祭神として強調することになったのかもしれません。一六〇八年には徳川家康公が大檀那として「八幡宮」の本殿を造営した記録が残っています。

小山展弘