NEOぱんぷきん 2021年5月号 好きです「遠州」!蓮光寺―遠府(見付)にあった七堂伽藍を構えた幻の巨刹

見付の西坂会館のあたりに明治44年まで光堂山蓮光寺がありました。蓮光寺は、平重盛公の開基により1176年に創建た寺院です。平重盛公は、遠州に連福寺、連城寺、連覚寺の三ヶ寺を造営したと言われています。これらはいずれも「連」の字を冠し、それは重盛公の法名「城連」にちなんでいると言われています。蓮光寺はこの三ヶ寺とは別に創建され、当初は天台宗で、後に時宗に改宗したと伝えられています。寺名に「蓮」を冠することから天台寺院の蓮華寺や蓮増院との関連が推測されます。蓮光寺のご本尊様は薬師如来様で、聖徳太子の作と伝えられていますが、「磐田市史」には藤原時代の作との説も紹介されています。この薬師如来様は現在、西光寺でお祀りされています。西光寺の関係の方によると「見付で大火があった際に蓮光寺ご本尊の薬師如来様が一筋の光となって虚空のかなたに飛び出し難を逃れた」ことから、「奇跡の光の薬師如来様」と言われているそうです。また、この伝説に由来し「光堂山」という山号になったとの説もあるそうです。一方で「磐田市史」は、国府の付属寺院には「光」の字を冠する名称がみられ、「国府(こくふ)」が「光(こう)」につながったとの説を紹介しています。この説によれば山号の「光堂山」の「光」も、寺院名の「蓮光寺」の「光」も国府にちなんだ名ということになろうかと思います。蓮光寺は、吾妻鏡では「府光堂」と記され、また「光堂」と記す書物もあり、国府政庁域に近いことから、国府鎮護の性格を持った寺であり、国分寺に匹敵する位置づけがなされていたと推測されます。なお、時宗に改宗した後は、阿弥陀如来様もお祀りして明治に至りました。

蓮光寺は七堂伽藍を備えた巨刹であったと伝えられています。七堂伽藍とは「金堂、講堂、塔、鐘楼、経蔵、僧房、食堂という寺院としてあるべき堂・塔が全て揃った寺の構え」と言われます。単に立派な寺院を「七堂伽藍を備えた」と形容することもあるのですが、ひょっとしたら蓮光寺は、油山寺のような立派な塔を備えた寺院だったかもしれません。創建当初の蓮光寺が塔の有無を含めてどのような寺だったかは、蓮光寺跡が発掘調査の対象ではないため明らかではありませんが、いずれにしても遠州の府中たる見付に立派な寺院が聳えていたことは想像できるかと思います。なお、西光寺のご住職様によれば、河原町の「平七稲荷社」は蓮光寺の北西守護のために吒枳尼天様を勧請したものとのこと。そのため、現在でも蓮光寺を引き継いだ西光寺のご住職様が祭礼を執り行っています。

蓮光寺が遠州の歴史の舞台となったことがありました。一つは吾妻鏡に記されている「光堂乱闘事件」です。1195年、勝田助長という武士が蓮光寺で他の武士に刃傷に及ぶ事件が起きました。これは幕府に誅殺された初代守護の安田義定の一派による、鎌倉幕府や北条氏への抵抗であったと考えられています。安田義定は幕府とは一線を画した独自の支配を試みました。それに同情的な在地武士も少なからず存在し、北条時政が遠江の新守護として入国するに際し、彼らの不満が爆発したものと「磐田市史」には書かれています。これらの事件からも蓮光寺が国府や守護所にゆかりのある特別な寺であったことが推測されます。

もう一つは、過去に「いわた大祭り」のモチーフにもなった「今川了俊による鐘の寄進」です。室町幕府の要職に就いて在京していた今川範国に代わり、今川了俊は見付に在って遠江国の政務を執っていたと考えられています。今川了俊は「一紙半銭結縁之輩」を集め、これらの人々の幸福を願う意味を込めて鐘を鋳造しました。これは鐘の鋳造を機会として見付や周辺の武士及び民衆をまとめようとする一大イベントであったと考えられています。そしてその奉納先が蓮光寺だったことは、蓮光寺がとりわけ国府や守護所にゆかりのある遠江国鎮護の寺として認識されていたからではないかと考えられます。ちなみに、この梵鐘は沼津市の霊山寺に現存しています。

遠江国の歴史の舞台ともなった蓮光寺。今はわずかに吒枳尼天堂や大黒天堂がその跡地に面影を残すばかりですが、蓮光寺やそれにまつわるエピソードも、地域振興や町おこしのテーマの一つとして生かしていけないものかと思います。

小山展弘