NEOぱんぷきん 2021年6月号 好きです「遠州」!粟ヶ岳と阿波々神社―「無間の鐘」の伝説も残る聖地

粟ヶ岳は掛川市北東の独立した標高532メートルの山で、山頂からは富士山、南アルプス、大井川、太平洋などが一望でき、桜の名所としても親しまれている景勝地です。遠州灘からの「見立」の山として漁師や船員の方々からも信仰を集めました。粟ヶ岳は、分杭峠、諏訪湖・諏訪大社様、戸隠山とほぼ南北一直線にならぶパワーライン上に位置しています。

山頂には阿波々神社様が鎮座しています。阿波々神社様は736年創建の式内社で主祭神様は阿波比売命様です。阿波々比売命様は、忌部氏の祖神の天太玉命様の娘神であり、八重事代主命様の后神と言われています。特に今川氏の家臣で掛川城主でもあった朝比奈氏の崇敬篤かったのですが、武田・徳川の攻防の兵火を蒙り、荒廃したと伝えられています。

阿波々神社様の周囲には原生林が広がっています。その原生林の一角、拝殿より少し下ったところに巨大な磐座跡が姿を現します。磐座跡の中には「地獄穴」という大きな岩の裂け目や「古代の祭祀跡」と言われるスポットがあります。このような山頂付近に、巨石があることに驚かされるとともに、太古からの自然に包まれるように感じる素晴らしい場所です。古代の先人たちはここに何かを感じ、祭祀を行ったのかもしれません。旧社殿は磐座跡よりも低い場所にあったので、かつては磐座跡を含む山頂がご神体だったのかもしれません。

粟ヶ岳には、かつて一寸坊大権現が祀られ、「山伏山」と呼ばれるほど修験道が盛んであったとも伝えられています。山頂付近にはかつて「無間山観音寺」という寺院がありました。現在は廃寺ですが、天平年間(729〜49年)、修験者の弘道仙人が疫病や災害を鎮めるため不動明王に祈願して釣鐘を鋳造し、粟ケ岳山上の松の枝に掛けたことが観音寺のはじまりと言われています。なお、この鐘が遠州七不思議の一つ「無間の鐘」であると言われています。この鐘を撞くと諸難を免れ、家が繁盛するという噂が立ち、多くの人々が鐘を撞くために山頂に登り、混雑のあまり怪我人や死者まで出る騒ぎとなりました。「無間の鐘を撞くとこの世で栄耀栄華を得ても死後に無間地獄に落ちる」という戒めが広がっても、鐘を撞きたいとする人が後を絶ちませんでした。時の住職の忍雄和尚は、人々の幸せを願って鋳造した弘道仙人の意思に反するとして無間の鐘を井戸の中に埋めてしまったと言われています。この井戸こそ、山頂付近の「無間の井戸」です。なお、「鐘を撞けば何でも願いが叶う無限の鐘」の伝説は「言葉により神縁が結ばれ願いを何でも叶えてくださる神」の事任八幡神社の伝説と類似点があるようにも感じます。811年には、弘法大師様が粟ケ岳に登り、大悲観音を安置すべき霊山であると感得し、小堂を創り、十一面千手観世音菩薩様を安置したといわれています。承和年間(834〜48)には長然和尚が座主となり、宝治年間(1247〜49)には恵徹和尚が上山し、曹洞宗に改宗したと「掛川市誌」には書かれています。なお平成6年よりご本尊の十一面千手観世音菩薩様は麓の常現寺に移され、そこでお祀りされています。

ところで、粟ヶ岳の山麓は「東山」と呼ばれ、お茶の一大産地です。2013年にはこの地の「茶草場農法」が世界農業遺産として認定されました。茶草場農法とは、茶園の畝間にススキやササを主とする刈敷きを行う伝統的農法のことで、この茶草によって、お茶の味や香りが良くなると言われています。茶草場農法は高品質な茶の生産方法であると同時に、生物多様性の保全にも繋がる農法でもあることから、世界から高く評価されたのです。

粟ヶ岳には、かつて豊富な水量を誇った「阿波々の麗水」という湧水があり、山麓のお茶生産に使われていました。しかし、新東名高速道路建設にあたり、粟ヶ岳にトンネルが掘られた際に「阿波々の麗水」は枯れてしまいました。「粟ヶ岳トンネル」掘削工事の際に、当時の榛村純一市長は「霊山と言われた粟ヶ岳にトンネルを掘ることになった。問題が起きなければよいが…」と懸念しましたが、悪い予感は的中してしまいました。粟ヶ岳付近の「松葉の滝」も、一時、水が枯れ、ポンプによって水の流れは回復したものの、トンネル掘削以前の水量までは回復していません。リニア新幹線の南アルプストンネルの掘削を巡って議論がありますが、粟ヶ岳で起きたことが二度と繰り返されないように願っています。

小山展弘