NEOぱんぷきん 2021年7月号 好きです「遠州」!法多山―遠州の高野山と称えられる小笠山麓の観音霊場

遠州を代表する観音霊場が法多山尊永寺様で、高野山真言宗の別格本山です。ご本尊の正観世音菩薩様は古来より「厄除観音様」と崇められ、その信仰は遠州のみならず東海地方まで及んでいます。法多山は、山岳信仰の霊山と認識されていた小笠山の代表的な霊場です。小笠山の山頂付近には小笠神社様や天狗多聞天様が鎮座し、かつては三仭坊大権現様も鎮座していたとも言われ、さざれ石の磐座や「六枚屏風」の奇岩も存在します。小笠山には高天神社様、今滝寺様、麓には普門寺様や三熊野神社様など神社・仏閣が点在し、随所に修験道の痕跡も見られます。なお、小笠山を紀伊半島の果無山脈に見立てると、小笠神社を大峰山寺に、法多山を高野山に見立てることが出来るようにも思われます。

法多山は、725年、聖武天皇の勅命を受けた行基上人が観音応臨の聖地を感得し、自ら刻んだ正観世音菩薩を安置したのが縁起と言われています。聖武天皇は、霊夢で現れた東方から飛来した大悲観音によって災厄を免れたため、国難と一切庶民の災厄を除かせるため、行基菩薩にその観音菩薩様の霊地を探索させたと言われています。弘法大師もこの地を訪れ、内仏の不動明王尊像を謹刻し、安置したと伝えられています。この不動明王様は現在、本坊の持仏堂に祀られています。行基上人開山の縁起がある一方で、国分寺僧侶の山林修行の拠点の一つとして開かれたとも考えられています。法多山が文献で確認されるのは白河法皇の時代で、本尊の霊徳は遠く京都に及び、白河、後白河天皇の勅願あつく定額寺に加えられました。戦国時代には、今川家や豊臣家、徳川家の信仰を集め、特に徳川家康公は法多山を祈願所として納経し、五万石の格式で遇しました。境内には徳川家康公お手植えと言われる松もあります。一方で、法多山の格式からすれば、徳川家康公を含む戦国武将達のエピソードや物語は意外に少ないようにも感じます。それは高野山が都から遠く離れた地で修行のために開かれた聖地であったのと同様に、遠州地方における修行の聖地として時の権力や俗世と一定の距離を取っていたためではないかと推察します。江戸時代には、東海道を往来する人々が旅の途中で法多山にも参詣するなど庶民の信仰も集まりました。その参詣道は「法多道」と呼ばれ、今も丁石が残っています。往時は一山で六十二坊の法燈が栄えましたが、明治維新で朱印地を返還し、法多山尊永寺と名を改めて現在に至っています。

法多山のご本尊様は「聖」観世音菩薩ではなく「正」観世音菩薩と名乗っておられ、厄難消除をはじめとする御利益があると言われています。法多山では、高野山などで修法を会得した僧侶により、毎日6回の護摩修行が厳修されていますが、これほど護摩が焚かれる寺院様(及びご本尊様)は、遠州では多くは存在しません。法多山に伝わる「田遊祭」は県指定の無形重要文化財で、遠州のご神仏様が法多の地に降臨し、繁栄と豊穣を寿ぐ内容です。本堂脇の北谷寺観音堂は尊永寺旧本堂を移築したものです。北谷観音様は「遠江三十三観音」の一つで霊験あらたかと言われ、もとは付近の北谷地区にありましたが、明治時代に無住の寺となり、法多山内でお祀りされるようになりました。なお、廃寺となった赤尾山長楽寺(現赤尾渋垂郡辺神社)のご本尊の阿弥陀如来様も本坊でお祀りされています。境内には鎮守社の白山神社のほか氷室神社や二葉神社もあり、僧侶がお祀りしています。密教では僧侶が神を祀ることに矛盾はありません。高野山の僧侶は、高野山の地を弘法大師に譲った四社明神を祀り、密教の教義を学んだ成果を報告します。また、山麓の丹生都比売神社では修行の無事とご加護を祈ります。「神仏習合」の信仰は、江戸時代までは日本人の主要な宗教観でした。ところで、法多山のお土産の「厄除けだんご」は有名です。近年では「だんごまつり」や「風鈴まつり」などのイベントも行われ、また、「ご利益カフェ」も開かれるなど、法多山はより親しみやすい、立ち寄りやすいお寺になりました。数年後には本坊付近に愛染明王様がお祀りされると伺っています。愛染明王様は「煩悩即菩提」「大欲得清々」という真言密教の教えを体現した仏様です。新たに愛染明王霊場も開かれ、法多山尊永寺様は「遠州の高野山」に相応しい真言密教の聖地として、次の時代を迎えようとしています。

小山展弘