NEOぱんぷきん2021年12月号「好きです遠州」
大乗院三仭坊―遠州に今も残る修験の名刹

磐田市中泉の大乗院三仭坊様は、真言宗醍醐派に属する山岳密教である修験道(山伏)の寺院です。4月の大祭では法螺貝が鳴り響き、柴燈護摩・火渡りも行われます。また、2月には星祭、8月には万灯祭も行われ、境内や駐車場には露店も並びます。ご本尊様のお堂の前には鳥居があり、江戸時代まで主流だった神仏習合の信仰の姿を現代に伝えています。大青面金剛堂は1803年建立で、歴史ある建物です。

大乗院三仭坊様は、実は一つの寺院ではなく、観広山大乗院様と小笠山小笠寺様という二ヶ寺が一つの境内に並立した寺院です。『中泉町誌』には、観広山大乗院様は、平行次(平清盛の甥の平行盛の次男)が、壇ノ浦で滅んだ平家の菩提を弔うため、自ら修験宗の山伏となって諸国を放浪し、中泉(当時は中市場と呼ばれていたようです)の地を選んで京都愛宕山から勝軍地蔵菩薩様を勧請したことが創始と書かれています。徳川家康公が中泉御殿を造営するにあたり、大乗院様を、京都の西北を守護する愛宕山に見立てて、中泉御殿の西北の守護寺院として位置づけました。高橋廣治氏の『遠州大乗院坂界隈』によれば、軍事的にも東海道の西からの侵入を防ぐ役割も担っていたようです。江戸初期には、総本山醍醐寺三宝院より、駿・遠・三から関八州までの当山派山伏の吟味役に任ぜられ、東海道に関所を設けてその任にあたっていました。しかし、1655年頃、現在の菊川市の永法院との「出入り(裁判)」に敗れ、廃寺となってしまいました。大乗院様は広大な寺域を有しており、現在の千寿酒造株式会社が所在する場所もかつては大乗院様の境内地で、「御林」と呼ばれていました。時の住職は、この「御林」を幕府に献上し、旧大乗院を和合院と改称して弟に継続させ、自身は磐田市七軒町の無住の草庵に移住し、大坂の四天王寺より大青面金剛様をご本尊としてお迎えし、新たに「観広山大乗院」と称し、現在に至っています。

小笠山小笠寺は、元々の名を祐厳寺と言い、寺伝によると、聖観世音菩薩様と不動明王様をご本尊とし、大宝年間に現在の磐田市御殿の地に創建されました。その後、小笠山より三仭坊大権現様を勧請し、寺号を小笠寺と改めました。『掛川市誌』には三仭坊大権現様を中泉に勧請したのは徳川家康公その人で、高天神城攻めの際のことと書かれています。小笠山頂には明治の神仏分離で廃寺となるまで威徳院という寺があり「小笠山大権現」を祀っていました。小笠神社付近の磐座には役行者の像があり、蝋燭岩、六枚屏風、大崖、犬戻り、蟻の戸渡りといった修行場と推測される地名もがあることから、小笠山は「小笠修験」ともいうべき山伏が修行する修験の山で、周辺の村々からも信仰の山として仰ぎ見られたと考えられます。『遠江古蹟図絵』には、小笠山は天狗火の現れる「当国一の古き山」と記され、付近の入山瀬には天狗の太鼓の音が聞こえた伝承、浅羽の小太夫という笛吹きの少年が小笠山で多聞天という天狗になったという伝承など、数多くの天狗伝説が残されています。

小笠寺様は、徳川家康公が中泉御殿を造営するにあたり境内地を提供し、中泉御殿の東北にあたる現在の磐田駅一帯に境内を移転し、中泉御殿の鬼門除け別当を命じられました。徳川家康公は度々参詣し、祈祷も受けたと伝えられており、戦勝祈願成就の際にはソテツを「御手植え」したと伝えられています。このソテツは、磐田市役所と磐田西小学校に移植されて現存し、株分けされたソテツは大乗院三仭坊様の境内にも植えられています。江戸時代の小笠寺様の住職は十万石の大名と同等の格式で遇され、中泉代官は毎年元日に小笠寺に年賀の礼に赴き、4日に小笠寺は答礼したとの文書も残されています。1806年の小笠寺大祭は盛大に催され、近隣の神社祭典を凌ぐほどであったと伝えられています。

小笠寺は明治時代の神仏分離・修験道禁止令によって強制的に廃され、境内地も鉄道用地として接収され、大打撃を受けました。大正時代に再興され、一時、磐田市久保町にありましたが、昭和17年に大乗院と合併して現在に至っています。江戸時代までの日本人の信仰を現在に伝える大乗院三仭坊様。自然との共生やSDGSが叫ばれる現代、修験道の持つエコロジカルな考え方に困難な時代を乗り越えるヒントがあるようにも思います。

小山展弘