NEOぱんぷきん2022年8月号「好きです遠州」
「今川さま」―今川氏真公を神として祀る菊川市棚草の祠

神社に神として祀られている人物といえば、「天神様」で親しまれる菅原道真公、東照宮の徳川家康公、乃木神社の乃木希典伯、明治神宮の明治天皇、二宮神社の二宮尊徳翁など歴史上で顕著な業績を残した人物や、怨霊として恐れられ、その怒りと祟りを鎮めるために祀られた人物が挙げられます。もっとも、神道では「亡くなった人は氏神となって子孫を見守る」との信仰があるので、この信仰によれば私達のご先祖様も神様ということになります。

ところで菊川市棚草の雲林寺跡地に「今川さま」と呼ばれる今川氏真公を祀る祠があります。今川氏真公といえば、一般的には、桶狭間の戦いの後、弔い合戦もせず、和歌を詠んだり蹴鞠ばかりして暮らし、今川家を滅ぼした人物と言われてきました。今川家が滅んだ後も、最初は北条家に身を寄せ、北条氏康公が死去すると、敵であった徳川家康公を頼り、牧野城を任されるもほどなく解任され、京に上って親の仇である織田信長公の前で蹴鞠を披露するなどの評価の低い話ばかりが聞かれます。一方で「戦国の世をしぶとく生き抜き、江戸幕府の高家として家名を存続させた」と若干のポジティブな評価もないわけではありませんが…。そのような今川氏真公が、なぜ神として祀られているのでしょうか?

静岡大学名誉教授の小和田哲男先生の『歴史探索入門』等によりますと、今川氏真公の祠に祀られている木札には「井水の宏恩」と書かれているとのこと。「井水」とは棚草で「今川用水」と呼ばれる丹野川から取水する用水路のことです。「遠州棚草村文書」の中には、氏真公が、棚草の領主であった朝比奈孫十郎公宛てに出した朱印状が残されており、「他郷からの干渉を禁止する」等の用水に関する特権を保証する内容が書かれています。「この地の農民たちにとって、この文書一通の持つ重みはかり知れないものがあった」と小和田先生は述べています。用水掘削の際には、近隣の村にも立ち入って測量や掘削工事を行わなければなりません。しかし、戦国時代においては、近隣といえども他村に立ち入ることはなかなか難しいことでした。他郷への立ち入りなどの用水工事に関する特権を氏真公が認めたからこそ、測量や工事を進めることができたと考えられ、氏真公の用水確保にかける並々ならぬ力の入れようを窺うことができます。なお、この雲林寺の祠には朝比奈孫十郎公も祀られており、当地で掘削工事にあたったものと考えられています。加茂にある「加茂井水」を掘削して井成神社に祀られる三浦刑部公は、もともとは今川家の武将であり、この棚草の今川用水の掘削に関わった後、加茂に移り住み、武士を捨てて農民となり、生涯を用水掘削工事に捧げたと言い伝えられています。用水の掘削は水田の開発につながり、石高を増やす富国策の一環であったと考えられます。また、水不足に悩む農民たちの悲願を叶えることにもなりました。小和田哲男先生は、今川氏真公の「今川用水」を、武田信玄公の「信玄堤」、加藤清正公の「清正堤」、伊達政宗公の「貞山堀」と比肩しうるものと評価しています。

小和田哲男先生は「(歴史上の人物について)一定のレッテルが貼られてしまうと、その枠組みから抜け出すのはなかなか難しい」と前掲書の中でも述べておられます。今川氏真公は、「今川用水」掘削のほかにも、織田信長公に先んじて「駿河大宮の市(富士宮)」に楽市楽座令も出しています。新たな歴史的事実の発見や史料の新しい解釈によって、歴史や人物の評価は変化し、通説や正史のイメージと異なる側面が見えてきます。

作家の塩野七生氏は「歴史叙述は勝者の意のままになりにくい」と述べています。確かに正史をすべて勝者による捏造と言うのは言い過ぎだと思います。しかし、やはり小和田哲男先生がおっしゃるとおり「正史とは勝者による勝者のための勝者の歴史」という性格を脱することもできないのではないでしょうか。敗者の歴史は、その事実さえ記録されず、あるいは発見されず、歴史の中に埋もれる場合もあります。なお一方で、現代を生きる私達も、勝者によって作られる言説に囲まれた世界にいるのかもしれないとも感じます。

小山展弘