NEOぱんぷきん2022年9月号「好きです遠州」
井之宮神社―嶺田用水掘削に命を捧げた中条右近太夫の物語

小笠北小学校の西の菊川のほとり、長安寺の東側に、小さな鎮守の森に囲まれた井之宮神社様があります。東嶺田、中嶺田、西嶺田、堂山、西ヶ崎をはじめ、多くの方々から「井宮様」と敬われています。この井之宮神社様には、天満宮の菅原道真公や東照宮の徳川家康公と同様に歴史上の人物である中条右近太夫が祀られています。郷土資料の「井の宮神社と中条右近太夫」には、嶺田用水の掘削に命を捧げた中条右近太夫を祀り、嶺田の人々によって神社は守られてきたと書かれています。

 菊川市の嶺田地区は平坦な土地で、戦国時代には水源がなかったため日照りの害に遭いやすく、一方で菊川の氾濫にも悩まされ、村人たちの暮らしは厳しかったようです。鷹狩で嶺田村にやってきた徳川家康公は、村人たちの飲料水が濁っていることを知り、村人の飲み水と田畑を耕すための水の確保のため、菊川上流の奈良淵から用水を引くことを命じたと言い伝えられています。しかし、その後、具体的な計画は作られず、家康公の命令は立ち消えになってしまい、ついに家康公も1615年に亡くなってしまったと言われています。この家康公の命令が真実であったとするならば、ひょっとしたら家康公は関東移封前に命令を出し、移封によって命令が立ち消えになってしまったのかもしれません。

 嶺田村の農民だった中条右近太夫は、日照りや干ばつの際の水源として、菊川の奈良淵から用水を引こうとしました。右近太夫は、加茂井水を掘削した三浦刑部のように、狂人のふりをしたり、紐が切れた凧を拾いに行くことを装って他村の様子を調べたり、大木に登って遠くを見分したと伝えられています。土地の高低など測量していたのではないかと考えられていますが、周囲の人々は右近太夫を「凧狂い」といって精神が異常になってしまったと思いました。測量にめどが立ったところで、右近太夫は横須賀藩に用水掘削を願い出ます。しかし、江戸時代の初期、嶺田村は横須賀藩の領地、水路が通る上平川や下平川や横地は旗本の領地であり、横須賀藩主の許しだけでは用水を掘削できませんでした。右近太夫が何度訴えても、横須賀藩も許可を与えることはできず、ついに右近太夫は幕府に直訴することに思い至ります。横須賀藩の領民である右近太夫が、藩主を越えて幕府に直訴することは「越訴」となり、禁じられていました。越訴した場合には、その内容にかかわらず、越訴した本人だけでなく、その家族まで死罪に処せられました。そこで右近太夫は妻と離縁し、子とも親子の縁を切りました。そしてたった一人で幕府に直訴し、「徳川家康公ゆかりの用水」掘削の許しを求めました。幕府は右近太夫の願いを聞き届けましたが、右近太夫の越訴の罪は消えず、右近太夫は1626年1月23日、死罪に処せられました。一方、用水掘削は実現し、痩せた農地は潤い、開墾も進み、数百ヘクタールにも及ぶ広大な農地となりました。嶺田用水は現在に至るまで恵みの水をもたらしています。用水掘削のために命を捨てた右近太夫。どんな思いで妻子と別れ、刑場に赴いたのでしょうか。完成した嶺田用水を見ることが出来たら、どのような眼差しで見つめたでしょうか。右近太夫の死から約50年後に井之宮神社は創建され、以後、右近太夫の業績は感謝の念とともに語り継がれてきました。

 江戸時代に嶺田用水について書かれた「嶺田文書」には、1760年に起きた東横地村と上平川村の訴訟の際に、先述の家康公の命令(「神君家康公ゆかりの用水伝説」)について疑問が投げかけられ、横須賀藩の調査の結果、証拠不十分で却下されたと記されています。ひょっとしたら用水掘削の許しを得るために家康公の名前を持ち出したのかもしれません。また、「嶺田文書」には右近太夫の「義人伝説」の記載もありません。一方で、当時の横須賀藩主の本多利長公は「浅羽大囲い」や横須賀の「十内圦」や「くじら山」などの農業土木工事を多く行ったことで知られており、まだ解明されていない史実があるのかもしれません。しかし、郷土のために命を懸けた先人たちによって現在の私たちの地域があることを忘れてはならないように思います。

小山展弘