NEOぱんぷきん2022年11月号「好きです遠州」
山名神社―橘逸勢公にゆかりのある山梨に鎮座する古社

袋井市山梨に鎮座する山名神社様は養老年間(717年~724年)の創建と伝えられ、月見の里の総鎮守の神様として信仰を集めてきました。主祭神は須佐之男命様で、伊邪那美命様、豊受大神様、誉田別命様も合祀されています。延喜式に記載のある山名郡四社の一つの「山名神社」とは当社のことと近世以降に言われるようになりましたが、古代では山梨や飯田の地も周智郡であった時代もあり、古代の山名神社様を現在の山名神社様とすることへの異論もあるようです。袋井市教育委員会作成の「山梨祇園祭」等によれば、山名神社様は近世までは「牛頭天王社」と呼ばれ、社地付近の字も「天王」と言われていました。1601年に伊奈忠次公が社領として十八石を寄進し、1648年には将軍徳川家光公から十八石の朱印状を受け、1846年に本社が御造営されたとの記録があります。例祭でお神輿が渡御する御旅所である若宮八幡社様の境内は、太田川上流から流れてきた神が漂着した地と言われ、最初に神社が建立された元宮の地と伝えられています。山名神社様は、橘逸勢公を祀った地とも言われる若宮八幡社の地に鎮座していましたが、度重なる太田川の氾濫や流路の変更があったため、崇神鎮座に相応しい地に遷り、お祀りされたと考えられています。江戸時代に元宮から現在の地に遷座奉ったとの伝承もあるようです。一方、「森町史」では、京都の祇園社が都の東南に鎮祭されていることから、それに相応するように、山梨と飯田の山名神社様が遠江一宮一山域から南東の太田川の河畔に鎮祭された可能性があると記しています。

太田川流域には牛頭天王を祀る天王社が多く、祇園祭も行われています。このことについて先述の「山梨祇園祭」は御霊信仰や牛頭天王信仰と太田川の水に疫病や穢れを流す信仰が融合したためと述べています。先述の「太田川上流から漂着した神」とは、御霊会信仰の崇神や疫神の依代を太田川上流から下流に流したことを物語っているのかもしれません。なお、この地の祇園祭には、西楽寺様が深く関係していたと考えられています。

山梨は、平安三筆の一人で、空海や嵯峨天皇とも親しかった橘逸勢公の終焉の地と言われ、いくつかの言い伝えがあります。山梨の用福寺には、逸勢公の辞世の句が伝えられ、その句では「月見里」と書いて「やまなし」と読ませています。「月見里」と記された鰐口が袋井市国本の原川浅間宮にも伝わっており、「月見里」の名称は橘逸勢公のみが使っただけではないようです。山梨の地名は、応神天皇の妃である物部の「山無媛」に由来すると言われていますが、橘逸勢公の辞世の句も山梨の地名の由来に関係があるのかもしれません。なお、先述のように若宮八幡社の境内は、橘逸勢公の娘の妙中尼が庵を結んで、父の菩提を弔った場所とも言い伝えられています。なお、橘逸勢公は「遠江国板築駅で病没し、同地に葬られた」と「日本文徳天皇実録」に記録されており、この「板築駅」説は山梨のほか、浜松市北区三ヶ日町日比沢付近も比定されています。橘逸勢公は、謀反を企てた疑いをかけられ、伊豆国に流される途中、遠江国で病没しました。無実の罪を背負って亡くなった橘逸勢公は怨霊になったと信じられ、初めて行われた都での御霊会で早良親王や伊予親王などとともに祀られ、現在でも上御霊神社様や下御霊神社様で「八所御霊」の一柱として祀られています。娘の妙沖尼は孝女と称えられ、遠江国内に剰田七町を与えられ、それが森町の橘地区であると考えられています。祇園祭の起源は平安時代に都で行った御霊会であり、御霊信仰と牛頭天王信仰が融合したものと考えられます。橘逸勢公の終焉の地である山梨や太田川流域に天王社が多く、祇園祭が行われていることは、先述の禊の信仰とともに、「八所御霊」の一柱の橘逸勢公の霊を慰め、御霊の力で、地域を護ってもらおうと願ったためかもしれません。

山名神社様の神幸祭で先頭を行く猿田彦は「天狗じんじい」と言われ、手に持った南天の棒で頭を触られると年中病気に罹らないと信仰されています。素戔嗚尊様が天狗に乗り移り、その霊力で疫病から守ると言われています。以前は子供がちょっかいを出すと田んぼの中まで追いかけたそうです。「神様は純粋な子供が好きだから」と言い伝えられています。

小山展弘