NEOぱんぷきん2022年12月号「好きです遠州」
寺谷用水を開削した平野重定公

令和4年10月6日、寺谷用水は「世界かんがい施設遺産」に登録されました。「世界かんがい施設遺産」とは、灌漑農業の発展に貢献した施設や歴史的・技術的・社会的価値のある灌漑施設を表彰するために、「国際かんがい排水委員会(ICID)」が創設した制度です。寺谷用水は1590年に掘削され、現在も天竜川左岸の1504haの水田を潤しています。

寺谷用水の掘削に大きな役割を果たしたのが戦国武将の平野重定公です。寺谷用水土地改良区では、毎年、平野重定公の命日の10月8日に「用水祭」という供養祭を重定公の墓所の大円寺で行っています。明治26年から続いており、先人の遺徳を偲び、感謝の誠を捧げる素晴らしいものだと思います。

平野重定公は、美濃国安八郡平野庄(現在の大垣市付近)出身と言われています。斎藤道三と織田信秀の戦乱を避け、一族こぞって遠江国豊田郡加茂村に移住しました。重定公は、当初、今川義元公に仕えましたが、桶狭間の戦いの後は徳川家康公に仕えました。冨田泰弘さんの『徳川家康公と磐田』によれば、1568年の今川氏真公の籠る掛川城攻めでは案内役を務め、兵糧等の輸送に尽力しました。武田信玄公の遠江侵攻の際には、加茂砦を守備し、武田勢と戦いました。小林佳弘先生の「磐田に伝わる徳川家康公伝説(『NEOぱんぷきん2022年11月号』」によれば、1574年の戦いでは武田方に急襲され、砦内まで武田勢に乱入されてしまいます。武田方の大将の川井助九郎は重定公の妹のおこんを捕らえて人質にして戦いました。重定公は妹のおこんもろとも川井を刺し貫いて討ち取り、懸命な防戦でなんとか砦を守り抜きました。この戦いでは重定公も深手を負い、傷は平癒したものの、以後は政務面で手腕を発揮するようになりました。なお、大円寺本堂前には非業の死を遂げたおこんの供養塔が建てられています。

徳川家康公は、伊奈忠次公に天竜川の治水と新田開発を命じました。忠次公は、当時、磐田原台地の西崖下を流れていた天竜川の支流を利用して井堀掘削を計画し、その実行を重定公に任せました。寺谷用水土地改良区の文書によれば、重定公はこの命を受けるにあたり「民福の基盤は開田にあり、開田の本義は水の完璧を期するにあり」との警句を座右の銘として臨んだと言われています。1588年に寺谷地区に大圦樋を設け、1590年に現在の磐田市浜部まで及ぶ全長約12kmの井堀が完成しました。これが現在の寺谷用水の始まりです。直接の利益を受けた村は七十三ケ村、収穫量は2万石にも及ぶ新田開発でした。徳川家康公は平野重定公の働きに喜び、米百俵を与えたと言われています。同年、家康公の関東移封に際して、重定公に伊奈忠次公に従って関東に随行するよう命じますが、重定公は箱根で病気になり加茂に戻ったと言われています。その後、家康公の上洛に際しては、必ず、徳川家康公の宿泊地として遠江国に飛び地で残された中泉に出向き、家康公のご機嫌を伺ったようです。関ヶ原の戦いの後、重定公は加茂砦を賜り、加茂及び匂坂近郷の3千石の代官に任じられ、1624年に病没したと言われています。なお、法多山尊永寺の仁王門は、重定公が寄進者の一人との言い伝えもあります。

ところで寺谷用水の「用水祭」では、開祖の平野重定公のほか、寺谷用水中興の祖として用水の維持改良に尽くした平野睦則翁、大橋亦兵衛翁、鈴木正一翁の供養も、大円寺西側の供養塔にて行っています。平野睦則翁と大橋亦兵衛翁は、磐田用水期成同盟会を結成し、十有余年に及ぶ磐田用水幹線改良事業に邁進し、用水近代化を実現しました。鈴木正一翁は、産業組合長(農業協同組合の前身)として農村振興に功績を挙げるとともに、磐田用水連合管理者として金原東隧道からの天竜川の導水を完成させました。

全国各地で、用水を開削し、「命の水」を引き、作物を豊かに実らせるために、先人達は多くの労苦を重ね、現在の私達に貴重な灌漑施設を遺しています。私達は、先人達の遺徳を偲び、感謝を捧げ、「命の水」を次代に受け継いでいかなければならないと思います。そして、その意味からも大井川の水が枯れることは絶対に起こしてはならないと思います。

小山展弘