NEOぱんぷきん2023年1月号「好きです遠州」
篠ケ谷山岩松寺―里山伏の拠点としての歴史も持つ浅羽の古刹

袋井市篠ケ谷にある岩松寺は、高野山真言宗に属する古刹です。寺伝によれば奈良時代にあたる725年、行基菩薩により開かれたと言われています。袋井市歴史文化館の「岩松寺の歴史と文化」によれば、浅羽庄の荘園守護所として平安時代末期には成立していたと考えられています。当初は「篠ケ谷山寺」と呼ばれていましたが、江戸時代初頭に「篠ケ谷山岩松寺」という山号・寺号を名乗り、真言寺院として成立したと考えられ、1648年に24石の朱印地も与えられました。江戸時代、観音堂を中心に山内には、六大坊、智積院、密蔵院、明王院、地蔵院の五院があり、将軍家と国家安泰を祈祷していました。寛文年間の火災で大きな被害を受け、五院のうち明王院のみが残り、現在、客殿となっています。聖観世音菩薩様が一山のご本尊様で開山当初から祀られていると考えられています。袋井市の指定文化財に指定されており、六十年に一度の御開帳があります。前回の御開帳が2014年でしたので、次回は2074年になります。客殿(明王院)のご本尊は不動明王様で、平安時代末頃の作と伝えられており、大変迫力のあるお姿です。1704年に一山の鎮守として勧請された白山大権現社もあるほか、かつては奥の院に大日如来様と毘沙門天様も祀られていました。

岩松寺には県指定文化財の鰐口が伝わっています。鰐口とは神社仏閣の軒先に掛け、参詣者が礼拝の前に鉦の緒と言われる布縄を振って鰐口の鼓面を打ち鳴らすものです。神谷昌志さんの「遠州歴史散歩」によれば、室町時代の大永二年に堀越氏延公が遠江国分寺に奉納したものが岩松寺に伝わったとのこと。堀越氏延公は今川氏真公に背いた堀越氏(遠江今川家)の一門で、徳川家康に堀越の地を献上し、晩年は諸井に居住したと伝えられています。なお、堀越氏延公の子孫には零戦の設計者として著名な堀越二郎博士がいらっしゃいます。

岩松寺の本堂である観音堂の隣には行者堂があります。行者堂には修験道の創始者とされる役行者様が祀られています。また、行者堂には1764年に江戸銀座の仏師吉田安右衛門によって彫られた「天狗面」も奉納されています。岩松寺は江戸時代、里山伏の拠点でした。江戸幕府は、1613年修験道法度を定め、諸国の修験者を、天台宗聖護院を本山とする本山派と真言宗醍醐三宝院が統括した当山派の両派のいずれかに属させるとともに、修験者(山伏)を里修験(里山伏)として定住させ、鎮守神社の小祠の別当、霊山登拝の先達、卜占、加持祈祷、呪符の発行などを行うことを認めました。江戸時代以前の山伏は全国を自在に移動し、変装して移動するには格好の姿でした。源義経一行も山伏の姿で奥州に逃げ延びたと言われていますし、武田信玄公や今川義元公も山伏を利用して、各国の情報を集めました。江戸幕府は政治犯や浪人、犯罪者、スパイが山伏の姿で諸国を徘徊し、幕府転覆の企てに結びつくことを恐れたのです。山伏・修験道は、山に入って危険を冒して激しい修行を行い、山の霊気によって験力を得ると考えられていたので、修験道法度は山伏の生命ともいうべき山林修行を制限・禁止するもので、その意味において山伏・修験道に大きな影響を与えました。遠江地方、とりわけ小笠山で山林修行をしていた山伏達は浅羽地区に定住するようになったと考えられ、浅羽北部の里山伏の拠点の一つが岩松寺であったと考えられます。

岩松寺は大工棟梁に対して免許皆伝の秘伝書を授与し、棟上げ式の次第を口伝により伝授していました。また、伝授した棟梁に対して大工仲間で作られる「聖徳太子講」の掛け軸も発行し、授けていました。江戸を中心に活躍した遠江・三河出身の大工棟梁たちは、徳川家康公の家臣団に組み込まれ、家康の江戸移封に際して江戸に移り住み、江戸の町の建設に携わりましたが、岩松寺はこのような大工棟梁たちとの関係を持ち続けていました。

なお、岩松寺付近で、遠州地方では最後となる果し合いがありました。明治6年、明治維新とともに武士を辞め、平芝の開墾に入った本目保三と神谷貞保が、一人の女性をめぐって、篠ケ谷の池の畔で果し合いをしました。一人は斬られ、一人は翌日に切腹するという運命を辿りました。この二人の墓が観音堂東側の森の中にひっそりと残っています。

小山展弘